伊達政宗といえば、隻眼とそれを隠す刀の鍔の眼帯が有名です。
今回は伊達政宗が隻眼になった理由と、眼帯についてご紹介していきます。
伊達政宗が隻眼になった理由
伊達政宗は幼少期に疱瘡を患いました。
疱瘡とは現代で言う天然痘で、天然痘ウイルスを病原体とする感染症です。
現在では撲滅された天然痘ですが、日本では平安時代からこの病の記録が残っており、感染力が強く致死率が20~50%と非常に高く、治癒しても瘢痕(あばた)を残しました。
伊達政宗は疱瘡を患ったことから、顔にあばたが残り右目の視力を失ってしまいました。
病の後に失明した右目が白くなり、眼球が腫れあがってしまったために側近の片倉小十郎が切り取ったという説がありますが、この説に関しては現在では否定されています。
昭和49年(1974年)に、伊達政宗の墓・瑞鳳殿の発掘調査が行われ、政宗の遺体が様々な科学技術の点から検証されました。
その結果、政宗の眼窩には異常が見られず、眼球を抉り出されたという説は否定されましたが、眼球の病については否定されず、何らかの眼球内の異常で視力を失ったということが推測されます。
眼帯が描かれていない伊達政宗の肖像画
伊達政宗の肖像画は現在でも数々残っていますが、実はその中で眼帯を着けた伊達政宗の肖像画は存在しないのです。
しかも眼帯どころか、両眼がはっきりと描かれている肖像画が多数存在するのです。
これには、伊達政宗自身が右目を失った姿(肖像画)を後世に遺すことを嫌ったことや、片目を失ったことはどんな理由であろうと親不孝であると考えたことからとされています。
ただし、瑞厳寺や東福寺に遺された伊達政宗の肖像や木像は、右目をつぶったような形で描かれていることから、右目の失明と眼球異常に関しては真実であると考えられます。
また「独眼竜」という呼称ですが、伊達政宗自身が自称していたという可能性も否定できませんが、史料上で「独眼竜」の表記が見当たらない以上、後世に名付けられたイメージだという説が有力です。
刀の鍔の眼帯
伊達政宗が眼帯をしている姿は、昭和初期に作られた映画「獨眼竜政宗」が初めてだといわれており、それ以前には見られませんでした。
そしてその後、伊達政宗=眼帯のイメージが定着し、またその眼帯が刀の鍔だということが政宗のトレードマークになったと考えられるのです。
しかし現実問題として、刀の鍔は鉄でできていることからかなりの重量があります。
鉄でできた鍔を眼帯にして装着し、自由に動き回ることはほぼ不可能なので、現在では刀の鍔の眼帯は創作であるという見解がとられています。
白い包帯で右目を隠していたという記録が残っていることから、実際には布で隠していた、または布で作った眼帯をしていたのではないかというのが事実に近いのではないかと推測されています。