伊達政宗が残した現在にまで残る実績とは?

独眼竜と呼ばれる伊達政宗は、戦での実績はさることながら、仙台藩の始祖として政治的にも様々な実績を残しました。

今回は、現代にも通じる政宗の政治的な実績をご紹介していきます。

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政宗の震災復興事業

3.11の東日本大震災によって大きな被害を受けた宮城県仙台市ですが、今回の地震の400年前の正宗の時代にも仙台は慶長の大津波に襲われました。

当時の仙台領の沿岸地域はかなり広く、現在の岩手県南部から福島県沿岸部まであり、慶長の大津波の時には数千人が亡くなったと伝えられています。

この「慶長三陸地震」に関しての史料はわずかしか残されていませんが、伊達家が編纂した「貞山公治家記録」には「領内において1783人溺死、牛馬85匹溺死」と記されています。

この災害の時に伊達政宗は、事態をすぐに幕府に報告し、いち早く復興にとりかかりました。

奥州街道の一部を被害のない内陸側に移し、米や食料を安全かつ早く運ぶ物流ルートとして「貞山堀」を作り、北上川の河口の石巻を集積地として整備しました。

また津波によって塩をかぶった地域を塩田にして塩の製造を推進するかたわら、沿岸地域の新田開発を進めて、江戸中期には伊達62万石は実質100万石を超えたといわれています。

この時に政宗が奥州街道を内陸に移したことで、今回の東日本大震災の時の物流ルートが辛うじて確保され、東日本大震災の復興の助けになったとされています。

江戸時代に入り、騒乱の時代が終わったことで、政宗は軍事的な活動ではなく、優れた政治的手腕を発揮したのです。

変化の時代のリーダーとして、現在にも通じる「伊達流」

伊達政宗はグルメ、そして茶道・和歌そして能楽などに堪能でした。

これは、仕事だけではなく身なりに気を遣うことや趣味によって、人間の幅を広げることが大切だということを教えてくれます。

また、ホストとして食事を共にする際にはそのグルメセンスとおもてなしの心がビジネス外交に有効だと証明してくれました。

戦国時代から江戸時代に移った際の伊達政宗の立ち回りは、現代のような変化の激しい時代にも活用できると思われます。

元々伊達政宗は若くして家督を継ぎ、時には残酷ともいえる所業で領地を拡大した勇猛果敢な武将でした。

しかし戦国時代というカオスな時期から、江戸時代という安定の時期を柔軟に乗り越えて、現在の東北随一の地方都市・仙台の基礎を作ったのです。

戦国時代の中期までは武力の時代といっても過言ではありませんが、織田信長が天下布武の基礎を作り、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げてからは、武力ではなく政治力でサバイバルレースを生き残らなければならなくなりました。

変化する時代を伊達政宗は、ただ強い者に媚びへつらうだけではなく、自分らしさを保ちながらも柔軟に乗り越えてきました。

慶長遣欧使節が良い例で、「前例がない」「成功は難しい」「リスクが高い」「上の者に目をつけられる」そういった他の誰もが敬遠しがちなことに目を向けた伊達正宗の実行力は評価に値します。

その慶長遣欧使節自体は目に見えた成果はあげられませんでしたが、政宗のその姿勢と実績が伊達家にとって大きな財産となり、後の仙台の繁栄につながったのではないかと思われるのです。

ちなみに「仙台」という名は、政宗が整備に着手する際に「千年(千代」ではなく「仙人の住む地(仙台)」のように、永遠に繁栄する地にしたい、という願いを込めて改名したとされています。

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