遅れてきた英傑といわれる伊達政宗は、野心を持ちながらも豊臣秀吉そして徳川家康に直接刃を向けることはありませんでした。
今回は、伊達政宗と豊臣秀吉、そして徳川家康との複雑な関係についてご紹介します。
秀吉に疑惑を持たれながらも、気に入られていた政宗
織田信長が天下布武(日本統一)を目指すも明智光秀の謀反に斃れ、その後豊臣秀吉が関白にまで上りつめて天下統一を果たします。
関白秀吉は、関東や東北の諸大名に、私的な戦いを禁止する「惣無事令」を出しましたが、伊達政宗はその命令を無視して戦を続けて所領を拡大していました。
政宗は20代前半、秀吉の度々の上洛命令も無視している中、秀吉は天下統一の仕上げとして、小田原の北条氏討伐に出向くことになりました。
伊達家が北条家と同盟関係にある事から、秀吉の命に従うか北条に味方するか、政宗は直前まで悩みました。
しかし、秀吉の圧倒的な軍事力を見聞きすることによって、政宗は秀吉に加担することを決めました。
結果的に遅参することになった政宗に、秀吉はなかなか謁見を認めませんでしたが、千利休に茶の指導を賜りたいという希望や他の大名のとりなしもあってようやく会うことが許可されました。
その時政宗は、死を覚悟した白装束で秀吉の前に現れ、秀吉はその姿と心意気に驚き、遅参を許されることになりました。
その後も、東北で起きた一揆を扇動したのが政宗であるという疑惑を釈明しに上洛した政宗は、金の十字架を掲げて秀吉の前に現れました。
証拠となる書状も捏造だと主張する政宗を、秀吉は減封にはしたものの許した形を取りました。
秀吉と政宗が親子ほど年が離れていたこともあり、秀吉は政宗にお灸をすえることはあっても、最期まで憎めない存在であったのではないかと推測されます。
徳川家と伊達政宗の微妙な関係
大阪の陣で豊臣家が滅亡するまでは、政宗は奥羽百万石という野望を持っていたと考えられる逸話がいくつも伝えられています。
有名な慶長遣欧使節も、スペインと友好関係を結んで軍事力を強化する目的だったともいわれています。
家康も、政宗との約束を反故にしたり、城の修理などの普請(公共事業)を政宗に押し付けるなど、外様大名の力を削ぐ政略をとっていました。
しかし大阪の陣の後、徳川によって太平の世が訪れた後は、政宗は軍事行動は一切控えるようになりました。
そして内政に専念し、領国の発展に力を注ぐようになるのです。
徳川家康の最期の時には、二代目・秀忠や政宗に後事を託したことからも、家康は政宗の忠心と政治力を買っていたと思われます。
伊達政宗と3代目将軍・家光との深い関係
徳川家光が将軍になる時には、父親に代わって政宗がその後見人となるほど、政宗は徳川将軍家と深い関りができていました。
政宗は秀忠よりも年長で、秀忠も政宗に畏敬の念を抱いており、政宗は秀忠に対して将軍とはどうあるべきかと説いていたとされています。
家光は祖父である家康を非常に尊敬しており、その家康が認めた政宗も尊敬の対象であり、「伊達の叔父殿」「北の叔父御」などと呼んで慕っていました。
こうして、豊臣秀吉・徳川家康から警戒されつつも信頼された伊達政宗は、徳川体制の基盤を作ること・日本を天下泰平にすることに大きく寄与したのです。