伊達政宗をはじめ、多くの武将の魂が眠る高野山の見どころとは?

高野山は、和歌山県北部高野町にある日本仏教の聖地の一つで、ここには伊達政宗をはじめ、多くの戦国武将のお墓や供養塔が多く存在しています。

今回は高野山に眠る多くの戦国武将のお墓についてご紹介していきます。

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高野山・奥の院

高野山は空海の御廟を中心とした聖域で、古くから奥の院と呼ばれています。

承和2年(835年)に永眠した空海上人は、今もなお高野山で「入定(永遠の瞑想に入る修行)」しているとされています。

高野山への納骨の風習は鎌倉時代に始まったとされており、墓石として石造りの五輪塔が作られ始めたのが室町時代の末期です。

現在では、江戸時代初期に立てられた諸大名の五輪塔が墓石群の中核となっており、これは徳川家康が高野山を墓所と定めたために、諸大名が追従したことが大きな要因となっています。

その結果、大名家の墓は110家にも及び、その数は全国の大名の約40%を占めているとされています。

もちろん分骨されたものや供養塔だけのものもありますが、たくさんの人々の想いが高野山の奥の院に寄せられていることがわかります。

興味深い戦国武将の墓所と、その配置

豊臣秀吉による朝鮮戦争の戦没者の供養塔は、そこで亡くなった人々を敵味方の区別なく供養する目的で造られたものとされています。

この戦没者供養碑は、薩摩藩の島津義弘と、その子忠恒によって造られたもので、これを見た世界遺産登録の事前調査員が「日本人は400年以上も前に、赤十字の精神を持っていた」と驚いたとされます。

また、甲斐の虎・武田信玄と武田勝頼の墓は、ライバルであった越後の龍・上杉謙信の墓と道を隔てて向かい合った位置にあるのが興味深いところとなっています。

そして武田家の墓碑からほど近い場所に、伊達政宗・石田三成・明智光秀の慰霊碑が同じ場所に建てられています。

この供養塔は五輪塔といい、仏教の地水火風空の五大を表しています。

生前では考えられないこの3人の隣人関係も、何かを考えさせる配置です。

そして豊臣家の墓所は他の武将よりも広い敷地にあり、秀吉ほか、母の大政所(なか)、弟の秀長、秀次の母である姉のとも、長男で早世した鶴松、そして淀君の逆修碑が置かれています。

高野山・奥の院の不思議とは

織田信長は生前、天台宗比叡山延暦寺を焼き討ちするという前代未聞の仕置きを行いました。

いくら宗派が違うとはいえ、真言宗の高野山に信長の墓所が存在するというのは不思議だと思われる方が多いのではないでしょうか。

これは高野山が、人間誰しも死後は敵・味方もなく、生前に犯した所業も全て関係なく平等である、というスタンスだからだとされています。

織田信長を討った明智光秀の墓所も同じ敷地内にあることも、死後の世界では一切関係ないということになります。

また奥の院では、空海上人が入定した前夜にあたる毎月20日の夜に、提灯の明かりで歩き、御廟で祈りをささげるという「ナイトウォーク」が催されており、一般の人々も神秘的な雰囲気を味わうことができます。

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