伊達政宗と直江兼続との複雑な関係性とは?反目しあっていた?!

上杉家の名家老である直江兼続と伊達政宗は、関ケ原の合戦では敵味方に分かれて戦い、その後も何かと反目しあったと伝わっています。

今回は伊達政宗と直江兼続の間の、面白いエピソードをご紹介します。

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天正大判事件

天正年間に豊臣秀吉が作った「天正大判」は地金のままの金の大判です。

このお宝ともいえる天正大判を伊達政宗が入手し、聚楽第に持って行き、そこに集まる武将たちに見せて自慢しました。

それを見て感心する諸将たちの中に、上杉景勝の側に控える直江景勝がおり、諸将たちは兼続に「山城殿(兼続)、見事な大判を拝見いたせ」と大判を回しました。

すると兼続は突然、袂から扇子を取り出して広げ、それで大判を掬い取って乗せると打ち返しながら表裏を眺めたといいます。

なぜそのようなことをするのか疑問に思った政宗は「上杉の陪臣の身分だから遠慮しているのか?遠慮しないで手に取って眺めて構わぬ」と言いました。

兼続は「かたじけない」と言いつつも「この山城めの手は、謙信公から先陣の指揮を任されて軍配を握った手でござる。誰の手に渡ったかも定かでない大判を手にとっては汚れます故、扇子に乗せて拝見いたした」と、一度も大判に手を触れずに返したといいます。

腹を立ててはバツが悪いと判断した政宗は「そうか」と苦笑して大判をしまったとされます。

はっきりものを言う兼続と、自尊心の高い政宗

関ケ原の敗戦によって大幅な減封となりながらも、主家である上杉家の存続の道を選んだ直江兼続が、江戸城へ初めて登城した時にも興味深いエピソードが残っています。

江戸城の廊下で兼続が政宗とすれ違った時に、兼続は政宗に挨拶もせず無視して通りすぎたのです。

それが気に食わなかった政宗は兼続に「陪臣の身分で大名のわしに挨拶もないとは無礼であるぞ」と罵倒しました。

そして兼続は振り返ると、「戦場で後姿ばかり拝見していた故に、わかりませんでした」と涼しい顔をして言い返します。

その発言の意味とは「伊達殿は背を向けて逃げる姿しか見たことがなかったので、正面のお顔では気付かなかった」ということになり、政宗は激怒しましたが、こんなことで腹を立てるわけにはいかないと我慢して立ち去ったといいます。

伊達家と上杉家

これらの逸話は後世の創作という可能性もありますが、様々な文献によると、この二人は相性が悪かったというような記録が見られるのです。

関ケ原の合戦以降の東北地方では、上杉家・伊達家をはじめとして領地(城)替えが頻繁に行われました。

周りを見ればどこの国も敵、そのような風潮の中で特に上杉家と伊達家では家風が大きく違ったという理由があげられるという説があります。

「義」を第一として領土欲を持たない上杉謙信の意思を受け継いだ上杉家に仕える直江兼続は、隙あれば領土を拡大しようと画策する伊達家は良い印象ではなかったとされるのです。

いずれにせよ伊達政宗と直江兼続は、大河ドラマの主人公になるほど個性的な人物であったことは間違いないといえるのではないでしょうか。

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