伊達政宗が幼いころに罹った病気とは?その影響は?

伊達政宗は幼少の頃の病気で片目を失いました。

今回はその経緯と、その病気が政宗に与えた影響についてご紹介していきます。

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伊達政宗が右目を失った病気とは

伊達政宗がなぜ右目を失ったかということについては、現在では疱瘡(天然痘)によるものだという点で、医史学者の意見は一致しています。

天然痘は致命率が高く、治癒した場合でも瘢痕が残ります。

その瘢痕が皮膚では痘痕、そして目にできれば失明すると言われており、政宗の場合は肌と目にできたと思われます。

江戸末期に種痘が普及するまでは、天然痘による失明は、日本人の失明原因の一位でした。

天然痘の歴史は古く、6世紀に渡来人により日本にもたらされ、敏達天皇や藤原氏などが犠牲になったと伝えられており、以後戦国時代まで流行が繰り返されました。

伊達政宗に関する逸話で、側近の片倉小十郎が白濁して醜くなった政宗の右目をえぐった、などと言われていますが、後年政宗の遺体を調査した結果、眼球が残っていたことが証明され、その逸話は真実でなかったとされます。

疱瘡が形作った政宗の性格

幼少期の伊達政宗は、あばた顔と片目の視力を失ったことから、内向的で引きこもりがちな子供でした。

その醜い顔を母の義姫に疎まれて、母に毒殺されそうになったという逸話が残っていますが、その後の義姫と政宗との関係性から、その話は狂言または作り話ではないかというのが現在では通説になっています。

そんな伊達政宗を心配した父・輝宗は、僧・虎哉宗乙を師として招聘します。

また、傅役に片倉小十郎を任命し、この二人の力によって後の政宗に見られる積極性や優れた知性が養われたといっても過言ではありません。

虎哉宗乙は、「心頭滅却すれば火もまた涼し」の言葉で有名な快川和尚とも親交のある、豪快で知識豊かな僧でした。

この虎哉宗乙は政宗に、中国の歴史書「十八史略」を教材にして「隻眼の英雄・李克用を見習うように」と教えたと伝えられています。

その李克用は「独眼竜」と称され、彼の軍団が「鴉軍」と呼ばれた黒づくめの集団だったことから、虎哉宗乙は政宗こそ日本の独眼竜になるように教育したのです。

この逸話は後世の作家による創作だという説もありますが、この教えが後の政宗を形作ったともいえます。

健康志向だった政宗の晩年

徳川幕府が確立して太平の世の中になった後、伊達政宗はとても健康に気を遣うようになります。

それは、幼いころに罹った天然痘の影響も大きかったと思われ、特に病気の予防対策に関しては現代にも通じる健康法を実践していました。

昼寝も含めてよく寝ること、薄着で過ごすこと、常に水を飲むこと、脈を自らとって少しでも異変があればすぐに医者に相談するなど、常に健康に気を遣いました。

また、ストレスがたまった時には竹割をして気分を晴らすなど、メンタル面での健康法も取り入れていたとされています。

そんな伊達政宗ではありましたが、寛永11年(1634年)あたりから食欲不振や嚥下に支障をきたすようになり、約2年後に亡くなりました。

伊達政宗享年70歳、死因は食道がん(食道噴門がん)と推測されています。

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