伊達政宗が貿易のために派遣した慶長遣欧使節とは?

伊達政宗の命により、慶長18年(1613年)にフランシスコ会宣教師ルイス・フロイスを正使、そして支倉常長を副使としてヨーロッパに派遣した使節を「慶長遣欧使節」といいます。

今回はその慶長遣欧使節の時代背景、そして貿易などの目的について解説していきます。

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慶長遣欧使節派遣の背景と目的

慶長16年(1611年)12月、三陸沖を震源とする大地震が発生、当時の資料によると地震による大津波は、仙台藩の領内だけでも数千人の命を奪ったとされています。

この地震は、奥羽と蝦夷地の太平洋岸を襲ったマグニチュード8クラス(推定)で、東日本大震災よりも大きかったという説もあります。

地震当時仙台藩主の伊達政宗は44歳、地震が起きた時政宗は高台にあった仙台城にいたと伝えられています。

その2年後、伊達政宗はサン・ファン・バウティスタ号を建造して、メキシコやヨーロッパとの交易を目指します。

伊達政宗には海外との貿易によって、地震と津波で壊滅した仙台藩を救うという目的がありました。

当時の徳川家康は、海外との交易はしたいけれど、日本でのキリスト教の布教はさせたくないという方針でした。

そこで伊達政宗が立ち上がって、慶長遣欧使節を派遣することになったのです。

慶長遣欧使節の軌跡と貿易交渉

月の浦を出航した使節は太平洋を横断してメキシコのアカプルコに上陸、その後支倉常長ら31名がメキシコを経由してスペインに向かいます。

そしてマドリードでスペイン国王フェリペ3世に面会し交渉しましたが、フェリペ3世が通商を認めなかったために、ローマへ向かってローマ法王の力を借りることになりました。

結局はローマ法王からの働きかけも得られずに、スペインへ戻りマニラを経由して長崎に帰着しました。

行く先々では歓迎を受け、評判も良かった慶長遣欧使節でしたが、残念なことにこれといった成果は見出せませんでした。

その理由としては、通商交渉と同盟を認めさせるためには、日本国内でキリスト教を認めさせることと、伊達政宗自身がキリスト教保護者であることが必要でした。

しかし、現実には日本国内でキリシタンが迫害されていたことが、スペインでもローマでもすでに知られていたのです。

慶長遣欧使節の功績

このように、貿易交渉という意味では成功をおさめることができなかった慶長遣欧使節でしたが、決して無駄だったとは言い切れません。

スペイン政府内では疑いの目で見られていた使節でしたが、ローマでは教皇との公式謁見を果たすことができ、この時の支倉常長らの態度は好評で、彼が持参した政宗からの漆器類などの贈答品も歓迎されました。

現在では慶長遣欧使節関連の資料はユネスコの世界記憶遺産に認定され、サン・ファン・バウティスタ号は観光施設になっています。

何より、日本国内で大阪の陣などが行われていた時代に、太平洋・大西洋を何年もかけて渡って通商交渉をしたという事実が、大きな功績になったと思われるのです。

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