伊達政宗が南奥羽の覇者となった摺上原の戦いの経緯と結果とは?

磐梯山の裾野の摺上原で行われた「摺上原の戦い」で、伊達政宗は蘆名義広を破り南奥州の覇権を確立しました。

今回はその「摺上原の戦い」の経緯と結果についてご紹介します。

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「摺上原の戦い」戦までの経緯

奥州王の立場を確保したい伊達政宗にとって、一番の障害は会津黒川城の蘆名義広でした。

蘆名義広は、北関東に勢力を広げていた鬼義重と呼ばれていた佐竹義重の次男で、伊達家にとっては強敵でした。

天正17年4月に相馬義胤と岩城常隆が、伊達家と同盟を結んでいる田村領に侵攻してきたことが、戦いの発端となりました。

その背景には、天正12年に伊達家の家督を継いだ伊達政宗が、勢力拡大策を積極的にとったため、複雑な血縁関係の奥州や北関東の諸大名を敵に回すことになった事があげられます。

父・輝宗が確立した外交関係が、家督を継いだばかりの政宗によって崩されていくことに、各大名が反発したのです。

正宗出陣、摺上原の戦い

天正17年4月22日、伊達政宗は米沢城を出立して翌日に大森城に入りました。

正宗は田村領に援軍を送るとともに猪苗代地方の諸城を攻略、会津盆地への進路を確保しました。

その進軍は、蘆名義広をおびき出す作戦で、政宗の真の狙いは内応した猪苗代盛国に命じて、留守になった黒川城を攻略することにありました。

その動きを察知した蘆名義広は黒川城に、佐竹儀重は白河小峰状に急遽戻りました。

そして6月5日、蘆名軍は高森城に本陣を置き、これに応じて政宗も猪苗代城から出陣、猪苗代盛国を先鋒として蘆名軍に攻めかかりました。

この時、伊達軍2万3000人、蘆名軍は1万8000人と伊達軍がやや有利でした。

摺上原は緩やかな丘陵地ですが、開戦当初は強い風が西から東に吹いていたことで、伊達軍に砂塵が舞い上がり伊達軍がやや不利な展開でした。

しかし風向きが変わったことや、蘆名軍の援軍が動かなかったことなどで徐々に伊達軍有利な展開となり、伊達郡の鉄砲隊の真横からの狙撃のために蘆名軍の足並みが大きく乱れます。

総崩れとなった蘆名軍は敗走を始めるのですが、退路となる日橋川にかかる橋が落とされていたことで逃げ道を失くし、討たれた者や溺死者の数は1800人以上だったと伝えられています。

奥州の王となった伊達政宗、しかし…

こうして黒川城を手に入れ、会津の大半を支配して奥州の覇者となった正宗でしたが、この摺上原の戦いは豊臣秀吉が発布した「惣無事令」を無視したものでした。

惣無事令とは、秀吉が大名同士の私闘を禁じたもので、それによって政宗は会津領を没収されることになってしまいました。

更に秀吉は奥州仕置によって、政宗を米沢から岩出山に転封させ、大崎氏・白河氏・岩城氏・葛西氏・石川氏を小田原の陣に参陣しなかったという理由で改易にしました。

没収された会津には秀吉の重臣である蒲生氏郷が入りましたが、この時蒲生氏郷は、これでもう天下を狙うことはできなくなったと涙を流したといわれています。

表向きは伊達政宗そして奥州の監視役という名目で会津を賜り、大大名となった蒲生氏郷でしたが、これも蒲生氏郷があまりにも切れ者だったために、秀吉が警戒して地方に遠ざるという作戦だったといわれています。

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