伊達政宗のミス?犯罪?大阪の陣での水野勝成隊壊滅の謎とは?

大坂夏の陣において、伊達政宗隊が味方である水野勝成勢の神保相茂隊を銃撃するという事件がありました。

これは政宗の誤射なのか、確信犯なのかの謎についてご説明していきます。

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大阪の陣と伊達政宗の立場

大阪の陣とは、徳川家康率いる江戸幕府軍と豊臣家との間で行われた合戦で、この戦いによって徳川軍は豊臣家を滅ぼす結果となりました。

大阪の陣は、慶長19年(1614年)の冬の陣、慶長20年(1615年)の夏の陣の二回からなり、大阪の役ともいわれています。

徳川方の伊達政宗は、大坂冬の陣で大和口方面軍として参戦、徳川と豊臣の間で一旦の和睦が成立した後は、外堀の埋め立て工事を担当しました。

そして翌年の大坂夏の陣では大阪城外で戦が始まり、伊達家の重臣・片倉小十郎が後藤又兵衛を壊滅させましたが、真田幸村の反撃によって伊達軍は後退を余儀なくされました。

この時に真田幸村は、「関東勢100万といえど、漢と呼べるものは一人もいない」と徳川軍をあざ笑ったといわれています。

伊達政宗の味方撃ち事件

伊達政宗は大坂夏の陣の天王寺の戦いで船場口に進軍し、明石全登隊と交戦中の水野勝成勢の、神保相茂隊に向かって銃撃したといわれています。

これによって神保隊は壊滅し神保相茂自身も討ち死に、神保隊の遺臣が水野勝成を通じて政宗に抗議しました。

この時の政宗は「明石隊によって神保隊が総崩れになったので、自軍が巻き込まれないように仕方なく撃った。伊達家の軍法に敵味方の区別はない」と主張したと「薩藩旧記」という書物に記されています。

前日に真田幸村と対峙して後退した伊達軍でしたが、この時に水野勝成が政宗に、再三攻撃要請をしたことが正宗の勘気に触れたという説もあります。

また、たびたび家康の命令を水野勝成が無視していることに対して、軍律に厳しい政宗が怒ったという説もあり、真実は謎のままになっています。

この事件は様々な憶測を生みましたが、政宗がこの事件で何かしらのとがめを受けたという記録は残っておらず、幕府の記録には「明石全登隊と奮戦して神保相茂は亡くなった」とだけ記されています。

政宗が味方撃ちをした理由

これに関しては様々な説が存在し、どれが正しかったのか現在でもわかっていません。

・政宗が供述した通り、神保軍が混乱して総崩れになりそうだったので、巻き込まれないようにするため

・敵軍が迫ってきたので、たむを得ず神保隊のことを考えずに攻撃したため

・水野勝成軍の手柄に政宗が嫉妬したため

・家康の命令を、水野勝成が何度も無視したことに腹をたてたため

・ただの誤射

このようにいくつもの説がありますが、実際にはこの味方撃ちが本当だったのかさえわかっていません。

いずれにせよ当時の戦場は敵味方が入り混じった混乱の場だったので、どんなハプニングがおこってもおかしくない状況だったと推察されています。

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