伊達政宗が黒川城を手に入れ奥州の覇王となった戦いの経緯とは?

天正17年(1589年)6月、伊達政宗は摺上原の戦いに勝利して黒川城を手に入れ、名実ともに奥州の覇者になりました。

今回はその摺上原の戦いの経緯と、黒川城についてご紹介します。

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摺上原の戦いの発端と経緯

天正17年(1589年)伊達政宗が、かねてから敵対していた蘆名氏を攻略するために侵攻を開始しました。

正宗は蘆名氏の支城を次々に落としていき、それによって蘆名の重臣で猪苗代城主の猪苗代盛国が伊達家に寝返ってきました。

このことに激怒した蘆名義広は猪苗代を目指して進軍、そして政宗も出陣して摺上原で両軍が激突することになり、これが摺上原の戦いです。

この時伊達軍2万3千人、蘆名軍1万6千人、初めは強い向い風の影響で伊達軍は苦戦しましたが、風向きが変わると状況は逆転して伊達軍が有利となり、伊達軍の猛攻に耐えられなくなった蘆名軍は壊滅・敗走します。

その翌日、蘆名義広は黒川城を捨てて実家の佐竹領に逃げ延び、黒川城に入った政宗は勢いに乗って蘆名領を平定し大大名にのし上がりました。

若干24歳の正宗は家督を継いでわずか5年で、奥州南部の大部分を支配下におさめたことになります。

摺上原の戦いの結果と影響

奥州の覇者となった伊達政宗でしたが、この頃にはすでに豊臣秀吉が日本の大部分を平定し、秀吉に従っていない大名は北条家と伊達家くらいとなっていました。

しかも、正宗は秀吉からの再三の上洛要請に応じていませんでした。

天正17年(1590年)に秀吉が北条氏の小田原城を攻略するにあたって、政宗は秀吉から小田原参陣を命じられます。

伊達家の武功派である伊達成実は徹底抗戦を唱えるものの、参謀であり一番の重臣である片倉小十郎が参陣を強く勧めたために、政宗は迷いながらも参陣を決意しました。

小田原参陣に遅れた正宗でしたが、覚悟の白装束で秀吉の前に現れて遅参を謝罪、そのパフォーマンスが秀吉の気に入ったのか許されますが、この謁見によって結局は秀吉の軍門に下ることになりました。

黒川城とは

黒川城とは、現在の「会津若松城」「鶴ヶ城」のことで、現在ではこの呼び方の方が有名になっています。

会津若松城といえば、白虎隊に代表される戊辰戦争最大の戦である会津戦争の悲劇が有名ですが、会津黒川城にはそれ以前に500年近い歴史があるのです。

正宗が居住していた黒川城は、現在ではその姿は会津若松城に埋もれてわからなくなっています。

しかし、蘆名氏の古図が現存していることと発掘調査の結果から推定すると、曲輪の位置は現在の会津若松城とほぼ同じだということがわかりました。

戦国時代が始まって蘆名氏の勢力が大きくなるにしたがい城の規模を拡張したとみられていますが、その目的は城の防衛という軍事的理由ではなく、政庁機能が大きくなったことによるものだと推察されています。

蘆名氏が滅亡して伊達氏のものとなった黒川城でしたが、伊達氏の統治は1年ほどで、その間の改修はなかったものとみられています。

そして蘆名氏を滅ぼして黒川城を手に入れた政宗でしたが、秀吉の奥州仕置きによってわずか1年で旧蘆名領は没収されて、岩出山(旧葛西・大崎領)へ転封されてしまったのです。

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