伊達政宗と佐賀?イメージとしてあまり繋がることがありませんが、実は興味深い関係があります。
今回は伊達政宗と佐賀との意外な関係についてご説明します。
佐賀県唐津市にある肥前名護屋城
佐賀県唐津市の肥前名護屋城は、豊臣秀吉が朝鮮出兵のために建てた城で、秀吉の死で諸大名が撤退するまでの7年間、朝鮮出兵への拠点となりました。
現在の名護屋城跡には、石垣や多くの武将たちの陣跡が残っており、併設されている名護屋城博物館では、日本と朝鮮半島の歴史を学ぶことができ人気を集めています。
肥前名護屋城は、大阪城に次ぐ規模を誇り、日本の城郭史上でも重要な城跡とされています。
またここは桜の名所としても知られており、毎年桜の季節には多くの観光客が訪れています。
朝鮮出兵のために、秀吉の命を受けた伊達政宗、徳川家康、前田利家、加藤清正、上杉景勝などの武将がこの城に集い、130以上の諸大名の陣屋が建てられ、全国から20万人を超える人々が集まりました。
現在では名護屋城跡と23カ所の陣跡が国の特別史跡に指定されており、天守閣の跡から遠く壱岐・対馬を見ることができます。
名護屋城と伊達政宗
伊達政宗は、文禄の役に参陣するために領国から上京しました。
その時の政宗軍の部隊の装束が豪華絢爛だったことから、上洛の道中において人々の噂となりました。
そしてそれまで静かに他の軍勢を見守っていた京都の住民も、伊達軍1500人(3000人とも)の行列の軍装の見事さに歓声をあげたと伝えられています。
これ以来、派手な装いを粋に着こなす人のことを「伊達者」と呼ぶようになりました。
朝鮮半島に渡った伊達政宗は、朝鮮南部の築城に際して、普請を免除されていましたが、それにも関わらず秀吉からの兵糧の支給を断ってまで築城に参加するなど尽力したという記録が残っています。
ちなみに、政宗は慶長の役の際には京に駐屯しており参加していません。
現在でも残る伊達政宗の陣跡
唐津市鎮西町には、現在でも「伊達政宗陣跡交差点」という場所があります。
また「伊達政宗陣跡」というバス停もあり、伊達政宗の陣跡が現在でも残されています。
しかし残念ながら道路脇に標柱は立っているものの、陣跡に関しては全く整備されておらず、自然のまま残されている状況です。
陣の遺構ははっきり残ってはいないものの、平坦地になっていることと、南の部分にコの字の土塁が辛うじて残っていることから、これが遺構と考えられています。
余談ですが、現在でも伝統工芸品である伊万里焼・唐津焼などの陶磁器は、秀吉の朝鮮出兵の際に朝鮮から連れてきた陶工たちが、祖国の技術を伝えてこの地で開窯したことが始まりとされています。