伊達家の家臣としてヨーロッパに渡った支倉常長ですが、その人物像や功績についてはあまり知られていません。
今回はその支倉常長について詳しくご紹介していきます。
支倉家は桓武天皇の血筋
支倉常長は、元亀元年(1571年)、羽州置賜郡(現在の山形県米沢市)で桓武天皇の子孫・山口常成の子として生まれました。
ちなみに支倉常長は、主君である伊達政宗より4歳下です。
その後、叔父である支倉時正の養子となり、その後時正に実子が生まれたため、伊達政宗の命で家禄1200石を二分して600石取りとなりました。
慶長14年(1609年)、伊達政宗が仙台領内でのキリスト教布教の容認と引き換えに、メキシコとの直接貿易を求めてスペイン(イスパニア)に慶長遣欧使節を派遣しました。
そしてその外交使節の使者に選ばれたのが、伊達家家臣・支倉常長でした。
常長ら一行はメキシコを経てイスパニアに渡り、さらにローマで教皇パウロ5世に拝謁し、7年後の1620年に仙台へ戻りました。
なぜ伊達政宗は、支倉常長を選んだのか?
本来ならこのような役割は、政宗の一族または家老級の重臣が使節となるべきですが、支倉常長は中級の藩士でした。
その理由として、慶長遣欧使節が万一失敗した時の影響を考えて、上級ではない家臣である常長が選ばれたのではないかとされています。
イエズス会のアンジェリスという人物は、常長の父がある犯罪を犯し、常長も本来なら罰を受けるところだったが、死刑と同じ渡海の苦痛を与える意味で渡航させた、と語ったとされています。
また、支倉常長の朝鮮出兵の際の海外渡航、そして異国に滞在した経験を買い、一行を統率する能力を評価されたという説もあります。
いずれにしても、なぜ支倉常長が使者に選ばれたのかについての資料が失われているために、その真相はわかっていません。
慶長遣欧使節後の支倉常長
7年間の渡航を終えた支倉常長でしたが、結果的に交渉は成功せず、帰国時には日本国内ではキリスト教の弾圧が始まっていました。
そして失意のうちに、支倉常長は2年後に死去、彼の墓は宮城県内の3カ所に存在しています。
慶長遣欧使節が持ち帰った史料は、現在では仙台市博物館に所蔵されており国宝に指定されています。
その中には支倉常長の肖像画もあり、この肖像画は日本人を描いた油絵として最古のものとされています。
この肖像画は支倉常長が凛々しい姿で描かれており、ローマでは常長の高潔な人柄や、武士としての礼儀正しさが称えられ、貴族の位が与えられました。
その後、支倉常長らの慶長遣欧使節は歴史の闇の中に埋もれてしまいましたが、それが再び脚光を浴びたのは、明治時代に入って岩倉具視使節団がヨーロッパを訪れた時でした。
当時の常長の書状を発見したことがきっかけとなり、ここでようやく慶長の時代にヨーロッパに赴き、国王や教皇と面会し交渉した日本人がいたことを知りました。
支倉常長の偉業は、250年後にようやく報われたといえる逸話です。