伊達政宗は何をした人なのか?残した功績は?

戦国時代といえば、「天下布武」を掲げた織田信長を筆頭に、徳川家康、豊臣秀吉、柴田勝家など、さまざまな戦国武将らの名前が思い浮かぶのではないでしょうか。

そんな武将のひとりでもある伊達政宗は、主に畿内を中心とした天下取りの戦いが繰り広げられた南北朝時代から戦国時代に、東北から存在感を示し続けています。

大河ドラマや歴史漫画などにも取り上げられる伊達政宗は、秀吉や家康に対抗し続けた生涯も描かれますが、どんなことを行ったのでしょう。

ここでは、伊達政宗が何をした人なのか、どんな功績を残したのかなどについて、ご紹介します。

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伊達政宗はどんな武将だった?何をした人なのか?

伊達政宗は、今の山形県にあたる出羽国「米沢」に生まれ、十八歳で伊達家の家督を継承しています。

幼少期に患った天然痘の後遺症で右目を失明したといわれ、右目が白濁した肖像画の存在は確認されていますが、眼帯をつけたものはありません。

脇差の鍔を眼帯代わりにつけた「独眼竜政宗」のイメージは、大河ドラマ以前に制作された映画によって定着したものです。

そんな伊達政宗が、何をした人なのかといえば、戦国大名「蘆名氏(あしなし)」を滅亡させ東北の覇者となった戦国武将で、徳川家光の時代には「副将軍」と呼ばれるほどに出世した人物です。

また、仙台藩初代藩主として新田開発にも尽力し、62万石だった仙台藩を100万石にする礎を築く功績も残しています。

伊達政宗の武将としての戦い以外の功績は?

仙台藩を築いた伊達政宗は、戦国大名として領国や天下統治に影響を与える政治や軍事面での功績以外には、何をした人なのでしょうか。

政治や軍事面以外の文化面でも、東北の地に伊達家で育まれた伝統的な文化を土台に、上方の豪華絢爛な文化と独自の個性、そしてスペインから影響を受けた国際性を盛り込んだ自らの「都」の文化を作り上げようとしています。

そんな政宗の生み出した文化は、政宗所用の南蛮装飾の陣羽織や黒漆の甲冑、瑞巌寺や大崎八幡宮などに、斬新な美意識とさまざまな分野への広がりがみられます。

伊達政宗の東北を土台とした都づくりの功績

戦国武将らによる畿内を中心とした勢力争いが演じられるなか、東北の奥州を拠点とする伊達政宗は「何をした人か」といえば、大きく次の三つの功績が挙げられます。

18歳で家督を継承し、奥州の周辺諸国を次々に制圧し、東北最大の領地を誇る「東北の覇者」となります。

また、秀吉や家康に東北から影響力を及ぼし、徳川家光の時代には「副将軍」と呼ばれるほどの出世と影響力を持ち、江戸時代の基盤づくりにも貢献しています。

そして、仙台藩での新田開発の功績は大きく、のちに100万石超となる礎を築いています。

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