伊達政宗と徳川家康そしてその後の徳川家との深い繋がりとは?

伊達政宗は、豊臣秀吉そして徳川家康に抵抗しながらも、恭順の姿勢をとり続けました。

今回は伊達政宗と徳川家康、そしてその後の徳川家との深い関係についてご紹介します。

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豊臣秀吉時代の伊達政宗

徳川家康は1545年、伊達政宗は1567年生まれで、年齢差は24歳となります。

織田信長が本能寺で斃れたのは1582年、その時家康は39歳そして政宗は14歳で、政宗は元服も済んでいたとはいえ、中央で起きている政変に対して関わることはできませんでした。

これが「伊達政宗が後10年(20年)早く生まれていたら」といわれる大きな理由です。

伊達政宗が武力で奥州の領土を拡大していたころ、すでに中央では豊臣秀吉による天下統一がほぼ完成していました。

豊臣秀吉は天下統一の総仕上げして小田原征伐を行うにあたって、政宗に参陣を促します。

再三の参戦要請に政宗は悩みますが、結局は重臣の片倉小十郎の勧めもあって秀吉の元に馳せ参じます。

そしてこの時、実質的に政宗は秀吉の軍門に下ることとなりました。

ちなみに徳川家康も、秀吉の要請によって小田原城攻略に参加しています。

秀吉死去、そして徳川の時代へ

豊臣秀吉が亡くなった後は、関ケ原の合戦そして大阪の陣を経て徳川家康の時代になり、江戸時代が始まります。

伊達政宗は関ケ原の合戦には東軍として参加し、その後も徳川家康に恭順し、江戸時代になってからは軍事活動を控えるようになりました。

こうしてみると、伊達政宗は東北で領地を切り取ったものの、秀吉そして家康の軍門に下ったという単純な構図に見えますが、政宗は秀吉にも家康にも完全に服従したわけではありませんでした。

時代の流れを読み、伊達家の当主として家臣や領民のことを考えて秀吉や家康に従った政宗でしたが、あわよくばもう一度天下取りに参加したいという野望が見え隠れしているのです。

しかし時代が流れ、家康から秀忠そして家光に代が変わった頃には、政宗は領国の繁栄に尽力し、徳川家と友好な関係を築いていきました。

2代目将軍秀忠との、政宗らしい逸話

政宗は、世情が落ち着いてからは領国の開発に尽力し、順調に仙台藩を発展させ東北随一の大名にのし上がりました。

正月に2代目将軍秀忠を自宅に招き、自ら調理したこだわりの料理を振舞おうとしたところ、将軍の側近が「毒見をしなければ出せない」と言いました。

その言葉に政宗は激怒し、「秀忠公を討ち取るなら毒などという卑劣な手は使わず、10年前に武力で討ち取っておる」と、秀忠に聞こえるように怒鳴ったとされています。

その後立花宗成のとりなしもあって、秀忠も政宗の本心からの忠誠を感じなごやかに食事会が行われ、その後も秀忠は能を鑑賞して上機嫌で伊達屋敷をあとにしたと伝わっています。

3代目将軍家光に慕われた伊達政宗

3代目将軍である徳川家光は、父・秀忠よりも伊達政宗を敬愛していたと伝えられています。

家光は祖父である家康を崇拝していた事でも有名ですが、家康亡き後にはその家康が認めた政宗が尊敬の対象になったと考えられ、実際に家光が将軍になる時には、父に代わって政宗が後見人となりました。

戦国時代の気風を持ち続けた伊達政宗は、よく家光に戦国時代の話をしたとされています。

家光は伊達政宗のことを「伊達の親父様」「北の叔父御」などと呼び、戦国時代の気風を持ち続けた政宗の戦話を聞くことを大変好みました。

政宗が亡くなった時、家光は大変悲しみ、江戸で7日間・京では3日間殺生や歌舞を禁止し喪に服すよう民に発令し、これは御三家以外では異例のことでした。

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