スペインとの通商を望んで慶長遣欧使節を派遣し、家臣をローマ教皇と謁見させたた伊達政宗。
今回は、その伊達政宗とキリスト教との関係、そして政宗はキリシタンだったのかについてご説明します。
伊達政宗はどの宗教を信仰していたのか?
日本にキリスト教の宣教師が渡来して、日本にもキリスト教が紹介されるようになった戦国時代。
全国的にはキリシタン排除派とキリシタン擁護派に、大きく別れていきました。
大名の中でも、キリシタン大名で有名な高山右近をはじめ、蒲生氏郷や大友宗麟、そして有馬晴信などがキリスト教の信者になりました。
伊達政宗は、スペイン人と会って影響を受けたことから、キリシタン擁護派だったといわれています。
スペインの話を聞くにつれて正宗は、異国への想いが深くなり、キリシタンを擁護するようになりました。
ただし、政宗自身の宗教は臨済宗でキリスト教信者ではありませrんでした。
仙台城を築城後、松島瑞巌寺や鹽竈神社の建築に尽力したことからも、臨済宗を信仰していたのは間違いないと思われます。
慶長遣欧使節を派遣
正宗はスペインとの通商を求めて、家臣の支倉常長らを慶長遣欧使節として派遣します。
その背景には、徳川家康がスペインとの通商に対して消極的であったことがありました。
家康は通商のために、スペイン領のメキシコに船を送ることにしましたが、スペイン側から技術の代わりにキリスト教の布教を要求されました。
しかし、家康自身はキリスト教排除派で、キリスト教は認めたくなかったのです。
そこで名乗りを上げたのが伊達政宗、スペイン出身のフランシスコ会宣教師のルイス・ソテロと出会ってキリスト教や異国に関心を寄せた政宗は、家臣や領民に受洗を推奨し、仙台には教会が建てられました。
そして、そのルイス・ソテロと支倉常長を使者として、慶長遣欧使節を派遣しスペインとの通商を求めたのです。
伊達政宗の宗教観
支倉常長ら使節団は、常長の人格や態度が優れていたことでローマ教皇やスペイン国王に好感を与えたものの、通商交渉自体は思うような成果はあげられませんでした。
その理由として、支倉常長の主君である伊達政宗がキリシタンではなかったことが障害になったとされています。
政宗自身も、スペインとの通商を望みましたが、キリスト教に改宗するまでは至りませんでした。
こういった事実を考え合わせてみると、政宗が望んだのはキリスト教という宗教ではなく、スペインとの通商だけだったのではないかと思われます。
家康によるキリシタン禁制令が発布されているにもかかわらず、正宗は慶長遣欧使節を派遣し、キリシタン文化に積極的に触れていきましたが、政宗はあくまで臨済宗を自分の信じる処としたのです。