伊達政宗は関ケ原の戦いの後、徳川家康の許可を得て、居城を岩出山から仙台に移し、城と城下町の建設を始めました。
今回は、仙台藩を作り初代仙台藩主となった伊達政宗の功績についてご紹介します。
仙台城(青葉城)の建設
実は政宗が入城する前から、この場所に城は存在しており「千体城」「千代城」と呼ばれ、国分盛重という人物が城主を勤めていました。
この国分盛重は伊達氏の出身であり政宗の叔父でしたが、後に政宗との仲が険悪になったことから伊達氏の支配下から逃げ出してしまったのです。
伊達政宗はこの地に城を建設するとともに、城下町も一から開発し直し、百万人余を動員した大規模な工事を行いました。
そして藩内の統治として48カ所の館を置き、家臣を配置しました。
この大事業が現在の東北地方の中心都市・仙台の基礎を作ったといっても過言ではありません。
仙台城は、青葉山の上に建てられており、東に広瀬川の断崖、西には「御裏林」という深い山林、そして南には竜ノ口渓谷に守られた天然の要害でした。
そのような難攻不落の仙台城でしたが、天守台は存在するものの、城のシンボルとなる天守閣だけは作らなかったのです。
その理由については諸説ありますが、時の将軍・徳川家康に敵意がないことを示すためだったとされています。
仙台城の建築当時、スペインの大使・ビスカイノは「日本で最良・最強の城の一つだ」と絶賛し、また仙台城から見下ろした城下町の様子を「江戸と同じ位の規模だが、建物はもっと立派だ」と報告しています。
伊達政宗の優れた内政・外交
伊達政宗は大河ドラマ「独眼竜政宗」のヒットの影響もあり、強い武将というイメージが大きいのですが、実は軍事面において過大評価されているのではないかといわれます。
実際、数々の戦闘において大敗は喫したことがないものの、歴史に残る大戦・大勝利の実績はあまりないのです。
その一方で、伊達政宗の本当の凄さは、内政面にあったと考えられます。
城下町を作るにあたって、貞山堀と呼ばれる運河や、北上川水系の開発なども積極的に行いました。
正宗がしっかりと基礎を作ったことで、仙台藩は政宗の死後も発展を続け、江戸時代を通してその領国が維持されたのです。
そして正宗は、豊臣家や徳川家との関係を上手に維持することができたという、優れた外交術を持っていました。
現在の言い方では「空気を読むことに優れ、コミュニケーション能力が高い人物」ということです。
また、スペイン(イスパニア)との外交に尽力したことも、政宗の大きな功績です。
1613年、政宗は家臣の支倉常長らを慶長遣欧使節として、スペインやローマに派遣しました。
結果的に大きな収穫はなかったものの、日本人が初めて海を渡ってヨーロッパへ行き交渉したという事実は、高く評価できる功績ではないかと思われるのです。