伊達政宗といえば宮城県の仙台のイメージが強い武将ですが、実は山形県米沢の生まれです。
今回は伊達政宗生誕の地とされる米沢城と、伊達政宗の関係について詳しくご紹介していきます。
米沢城の歴史と伊達政宗
米沢城は山形県米沢市にあった平城で、鎌倉時代の中期に、鎌倉幕府の重臣である大江広元の次男・長井時広が出羽国長井郷の地頭に赴任した際に築城されたとされています。
それ以後、長井氏の支配が150年近く続き、8代目広房の時代(室町時代初期)に伊達宗遠に侵略され、安土桃山時代まで伊達氏の支配下に入りました。
伊達氏第14代伊達稙宗と第15代晴宗の間に起こった、父子の対立である天文の乱を経て、正宗の祖父である晴宗は桑折西山城から米沢城に本拠地を移し、晴宗・輝宗そして政宗へと当主が変わるまで本拠地として使用されました。
そして米沢城に城下町ができたのは、この時代だとされています。
天正17年(1589年)、伊達政宗は蘆名義広を破り蘆名氏を滅亡させて、黒川城(若松城)に本拠を移しましたが、豊臣秀吉の仕置きにより米沢城に戻ることになりました。
そしてその二年後の天正19年には、秀吉の命により政宗は岩出山城に移ります。
伊達政宗生誕の城は本当に現在の米沢城?
伊達政宗は米沢で生まれて、青年期を米沢の地で過ごしました。
しかし近年、政宗が生まれた城は伊達家が居住したとされる米沢城ではなかったという説が出てきているのです。
米沢城といえば、江戸時代には上杉家が居城としていたことで有名で、現在は上杉神社となっています。
近年の発掘調査や資料によると、政宗が生まれた当時の米沢城はその米沢城ではなく、米沢市の南西部にある「舘山城」だった可能性が強くなってきました。
つまり、伊達氏にとっての「米沢城」と、上杉家が米沢に入って居城とした「米沢城」が違う城だったのではないか、ということです。
現在では、確実な史料や調査結果が出ていないこともあり、米沢城・舘山城址の両方で、伊達政宗生誕の地をうたっている状況とされています。
現在の米沢城
現在の米沢城址には、本丸と土塁・堀程度しか残っておりません。
米沢城は平城で、本丸を中心に、二の丸・三の丸を同心円のような形に配置され、曲輪が石垣でなく土塁に囲まれた造りとなっています。
伊達氏が居住していた時代には本丸だけの単郭構造だったとみられており、上杉氏の時代に拡張されたと考えられています。
現在は公園となっている広大な本丸の半分を占めているのは上杉神社で、朱塗りの菱門橋がかかる本丸の南側には昭和になって再建された春日神社があります。
春日神社は、上杉家が古くから守り神として信仰しており、会津から米沢への転封の際に共に移されました。
また藩の財政が逼迫した江戸時代に、上杉家10代藩主・上杉鷹山が再建を願って誓詞奉納した神社としても知られています。
上杉神社の隣には、「稽照殿(けいしょうでん)」という宝物館があり、そこには上杉家の遺品が131点(重要文化財)や重要美術品を含む多くの収蔵品が展示されています。