伊達政宗と織田信長、二人の英傑の共通点と決定的な違いとは?

伊達政宗と織田信長、活躍した時期が違いますが、両者とも現代でも人気のある戦国武将です。

今回は、伊達政宗と織田信長の共通点と相違点をご紹介しながら、現代でも高い支持を得ている理由について考察していきます。

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両者の年齢差

織田信長は天文3年(1534年)に尾張(愛知県西部)で生まれ、伊達政宗は永禄10年(1567年)出羽国の生まれであることから、年齢差は33歳で地理的にも決して近くありません。

正宗が生誕したころには、信長は一人前の武将して桶狭間の戦いで今川義元を討ち、尾張を統一しています。

信長はその頃に、「天下布武」の朱印を使用し始め、すでに天下を取ることを意識していました。

そして天正10年(1582年)、信長は京都の本能寺で明智光秀に討たれ、その野望は潰えてしまいます。

正宗の初陣は天正9年(1581年)、15歳の時でした。

そして正宗が父・輝宗の隠居に伴って家督を継いだのが天正12年(1584年)で、両者の間に接点がないばかりでなく、この頃の政宗は京都で起こっている事件の詳細を具体的に理解していなかったとも考えられます。

伊達家は代々足利将軍から、一字を拝領して元服をすることを慣習にしていましたが、政宗の時代には将軍・足利義昭が信長によって追放されていたために、一字拝領を求めなかったとされています。

伊達政宗と織田信長に見られる共通点

一番の大きな共通点は、スケールの大きさと奇抜さだと考えられます。

それは、従来の考え方や慣習に縛られず、己の優れた感性で時代を切り開いていったことです。

織田信長は、若いころに傾奇者と呼ばれ、古い考え方の者たちから馬鹿にされ疎んじられましたが、信長が描く構想はそんな小さなことではありませんでした。

桶狭間の戦いでの奇襲戦法、長篠の戦での鉄砲隊など、戦のあり方を大きく変えていったのが織田信長でした。

一方の伊達政宗も、武田の騎馬隊と織田の鉄砲隊からヒントを得て、騎馬鉄砲隊という前代未聞の戦闘方法を編み出します。

また、政宗が派遣したヨーロッパとの通商を目的とした「慶長遣欧使節」、これも、当時の凡人ではおよそ考えつかない発想でした。

武勇や知性そして壮大な発想、そしてこの両者の「美」に対するこだわりも忘れてはいけません。

「こうでなければいけない」という格式ばったスタイルではなく、自分の美意識に合ったファッションセンスは、現代でも高く評価されています。

両武将の決定的な相違点とは

伊達政宗と織田信長、この二人と深く関わった豊臣秀吉・徳川家康は、自分たちよりも若い伊達政宗に、織田信長の面影を感じたのではないかと思われます。

豊臣秀吉は、正宗の数々の行動を諫めつつも結局は許していることから、傾奇者だった信長の面影を感じて、政宗には好意的だったと感じることができます。

しかし、徳川家康は自身の慎重な性格から、政宗には好意を持ちながらも生涯脅威を感じていました。

織田信長は不世出の武将であったことは間違いありませんが、あまりにも傲慢で敵が多すぎました。

伊達政宗も若いころには周囲に敵を作って、しばしば窮地に追い込まれましたが、秀吉や家康と交わっていくにつれて、生き残る策や領地を安堵される方法を身につけて、周囲とうまく折衝していきました。

「時代が違ったから」といってしまえばそれまでですが、この辺りが強引な信長と、良い意味で世渡り上手だった政宗との決定的な違いではないかと推測されるのです。

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