五郎八姫は、伊達政宗と正室の愛姫との間に生まれた女性です。
今回は、その五郎八姫の波乱万丈な生涯についてご紹介していきます。
待望の嫡出子・五郎八姫(いろはひめ)
伊達政宗と正室の愛姫の間に待望の嫡出子が生まれたのは、結婚してから15年でした。
夫婦は伊達家後継者として男児誕生を熱望していましたが、生まれたのは女児で、そのため男子名である五郎八しか考えていなかったので、政宗はそのまま五郎八姫と名付けたとされています。
また、次に生まれるのが男児であるようにとの希望をこめて、五郎八と名付けたという説もあります。
五郎八姫は幼いころから、母の愛姫と同じく大変美しく聡明で、政宗は「五郎八姫が男子であれば」と嘆いたと伝えられています。
そしてその聡明な五郎八姫を、実の弟であり仙台藩の2代藩主である伊達忠宗も頼りにしていたとされます。
政略結婚、そして政宗との深い繋がり
五郎八姫は、京都の聚楽第屋敷で生まれ、聚楽第から伏見そして大阪と各地を転々としました。
そして慶長4年(1599年)に、有力大名との結びつきを深めることを望む徳川家康の画策によって、家康の六男・松平忠輝と婚約することになります。
松平忠輝は、徳川家康と、側室の茶阿局(さあのつぼね)の間に生まれた六男ですが、家康はあまり忠輝を可愛がらなかったとされています。
家康との不仲が続いた忠輝でしたが、越後高田藩初代藩主となり、徳川家と伊達家の架け橋として五郎八姫を娶ったとされています。
この忠輝と五郎八姫夫婦は、結婚後も伊達政宗と深い繋がりがあったとされています。
まず、忠輝の居城である高田城は、政宗が総監督として建造したものです。
松平忠輝と五郎八姫は睦まじかったとされていますが、子供はできませんでした。
そして家康と忠輝との不仲が決定的となったのは、大阪冬の陣での命じられた内容が気に食わなかった忠輝が高田城を出ようとしなかったことでした。
そして舅である伊達政宗は忠輝に出陣を強く促し、忠輝はようやく出陣しましたが、完全に遅参となり、家康は忠輝との対面を禁じてしまいました。
また、大坂夏の陣では実戦経験の乏しい忠輝の相談役に政宗があてられたとされています。
しかし、家康が逝去した際も、家康の勘気を被った忠輝だけは拝謁を許されず、兄であり家康の後継者の徳川秀忠から改易を命じられてしまいました。
そしてその時に、愛妻の五郎八姫と離縁し、五郎八姫は故郷の仙台城に帰国することになりました。
忠輝との離縁後の五郎八姫
23歳で離縁して実家へ戻った五郎八姫は、政宗が再婚話を持ち掛けるも拒否し続けました。
再婚をしなかった理由として、母の愛姫や夫であった松平忠輝キリシタンであったことで、五郎八姫もキリシタンだったのではないかといわれています。
キリスト教の教えでは、教義上離婚自体を認めない、なので再婚も認めていないのです。
父である政宗の元に戻った五郎八姫は、仙台城の本丸西館で暮らしたことから「西館殿」とも呼ばれました。
また、五郎八姫は京都で生まれて京都で育ったことから、風習や言葉も京都風であり、仙台に移り住んだ後は暮らしになかなか慣れずに苦労したという話も伝わっています。
そして五郎八姫は寛文元年(1661年)5月8日に天寿をまっとうし、松島の天隣院で静かに眠っています。