伊達政宗が「独眼竜政宗」と呼ばれるようになった理由と経緯は?

NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」は、現在でも歴代の大河ドラマの中でも視聴率第一位の作品です。

今回は、大河ドラマ「独眼竜政宗」と、伊達政宗が独眼竜の異名をとった理由についてご紹介していきます。

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大河ドラマ「独眼竜政宗」

現在数多くある、好きな戦国武将ランキングで常に上位に伊達政宗の名が上がるのは、昭和62年(1987年)の大河ドラマ第25作「独眼竜政宗」の影響が大きいといっても過言ではありません。

「独眼竜政宗」が放映される前年までの3年間は、大河ドラマは近代史路線でした。

これを再び時代劇路線へ方針転換したのがこの「独眼竜政宗」で、もし視聴率が低迷するなら大河ドラマの存続に関わる大きな賭けだったと伝わります。

当時新進気鋭の渡辺謙を主人公の政宗役に、その他勝新太郎・北大路欣也・岩下志麻など、大物俳優陣を起用した「独眼竜政宗」は、脚本の面白さもあって現在でも大河ドラマ視聴率第一位の座を誇っているのです。

現在はテレビ離れが進んで全般的に視聴率は落ちているので単純な比較はできませんが、「独眼竜政宗」が生んだ39.7%の視聴率というのは驚異的な数字であることは間違いありません。

伊達政宗が独眼竜(隻眼)になった理由と眼帯

政宗は幼少の頃、疱瘡(天然痘)を患い、右目の視力を失ってしまいました。

疱瘡の膿が目に入って白濁して視力を失った、そしてその眼球が腫れて飛び出ていたなどともいわれています。

後に重臣の片倉小十郎の手によって、その眼球が抉り出されたという逸話もありますが、復元された政宗の頭蓋骨の眼窩の調査によって、眼球は残っていたと証明されました。

現在でも残る政宗の肖像画や像では、正宗の右目は閉じた状態または両目が開いている状態です。

正しい姿は片目が閉じた状態ですが、両目が開いた肖像画や像が残るのは、政宗が両目が整った姿を残すように命じて作らせたもの、というのが現在では通説になっています。

そして刀の鍔の眼帯については、鍔が金属製であり重さも相当なものであったことから、現実に使われていたとは考えにくく、後世の創作であるという可能性が高いと思われます。

実際に政宗の遺品の中から眼帯のようなものは発掘されていないことから、人前に出るときには白い布か、布製の眼帯を使用したのではないかと思われます。

「独眼竜」の由来

伊達政宗が独眼竜と呼ばれるのは、江戸時代後期の儒学者・頼山陽の漢詩「多賀城瓦硯歌」に始まったとされています。

その漢詩で政宗を「河北終に帰さん独眼竜」と詠み、頼山陽は独眼竜が唐の武将、後の後唐の皇帝になった李克用のことを指すと自ら注釈を入れています。

李克用の率いる軍は黒色に統一され、また片目が見えなかったことから、当時の人々は李克用を「独眼竜」と呼びました。

また、伊達政宗が学問の師・虎哉宗乙から独眼竜李克用のことを学び、自らをなぞらえたという説もあります。

李克用そして独眼竜のことを知った政宗は、早くから「龍」の字を好み「龍」を含む印を用いたともいわれています。

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