好きな戦国武将は?というアンケートで、常に上位に位置する伊達政宗。
今回は、現代人を惹きつける伊達政宗の魅力について、様々な角度からご紹介していきます。
良いと判断したものを積極的に導入する先見性
まず、慶長18年に伊達政宗自ら建造した「サン・ファン・バウティスタ号」を、欧州との交易のために派遣したということがあげられます。
東北の一大名として、日本初の太平洋・大西洋を横断してローマ法王に使者を送るという偉業は、伊達政宗が早いうちから世界に視野を広げていたことの証であるといえます。
その伊達政宗の積極的な行動の裏には、優れた内政手腕があったことも見逃せません。
領内の生産性を高めるために堀を築いて、現代まで続いている穀倉地帯を作りました。
そして石巻港を整備して江戸との流通ルートを確保して、多くの利益を上げています。
また軍事においても、伊達政宗の「鉄砲騎馬隊」も画期的な戦法でした。
織田信長の時代から戦の形を変えてきた鉄砲という新技術に、古くからの騎馬隊の機動力をプラスすることを考案したのです。
実際この鉄砲騎馬隊は、大坂夏の陣で大阪方の後藤基次を討つなどの戦果を挙げました。
一流の文化人であり、伊達男の語源ともなった洒落者
伊達政宗のシンボルとなっている、三日月型の前立てのついた兜。
この兜のデザインは、現在でも五月人形などで一番の人気を誇っています。
また黒で統一した戦支度や、朝鮮出兵の際の派手な装束など、伊達政宗のお洒落感覚は現代人の心にも通じています。
隻眼そして刀の鍔の眼帯も伊達政宗のシンボルとなってはいますが、残念ながら実際に刀の鍔の眼帯を着けていたという記録はありません。
そして伊達政宗は、生まれた時から帝王学を学んで育ったことで教養も豊かで、様々な分野に興味を持ちました。
戦乱の時代が終わり太平の世になってからは、料理に興味を持ち様々な新しい料理を開発したり、料理の腕を振るいました。
それも現代人の共感を得る一つの側面だといえます。
逆境から奥州の覇者へ
疱瘡(天然痘)で右目の視力を失い、家族内の確執の中で育ち、引きこもりがちだった幼少期から、日本中にその名を知らしめるほどまでに出世したというストーリーも、伊達政宗の魅力の一つです。
幼少期の逸話に関しては、誇張されている部分や事実と異なる部分もありますが、そういった幼少期を過ごしたことから生まれた、豪胆であり細心、そして反権力であり保身力も高い伊達政宗はには、たくさんの魅力があると思われます。
才能あふれる伊達政宗でしたが、その才覚ゆえに時に暴走して豊臣秀吉や徳川家康から叱責をうけるなどという茶目っ気もありました。
そういった多面性も、現代人に通じる伊達政宗の魅力の一つではないかと推測されるのです。