江戸幕府の第3代将軍・徳川家光は、伊達政宗に大きな信頼を寄せていました。
今回は伊達政宗と徳川家、そして徳川家光との深い関りについてご紹介します。
江戸幕府・第3代将軍徳川家光とは
徳川家光は慶長9年(1604年)7月17日、2代目将軍徳川秀忠の二男として生まれました。
徳川家の継嗣であった父・秀忠には3年前に誕生した長男・長丸がいたのですが、すでに早逝していたために嫡男として扱われ、祖父である家康と同じ幼名・竹千代を与えられました。
家光は祖父である徳川家康を大変尊敬し、存命中はもとより家康亡き後もその念は衰えることがありませんでした。
家光は「二世権現・二世将軍」「生きるも、死ぬも、何事もみな大権現様(家康)次第に」などと書いた紙を入れたお守り袋を、常に携帯するほど、父・秀忠よりも家康を尊敬していたのです。
また、家光は幼いころ病弱で、3歳の頃に大病を患った際に家康の調薬によって快癒したという逸話も残っており、父・秀忠よりも祖父・家康に家族としての恩を感じていたという経緯もあります。
伊達政宗と徳川家光
徳川家光は、御伽衆として歴戦の武将たちを傍に置いて、戦の話を好んでよく話を聞いたとされています。
家光は、伊達政宗や立花宗成を特に尊敬しており、政宗のことを「伊達の親父殿」「北の叔父御」などと呼んで慕っていました。
戦国時代を機転を利かせて大胆不敵に生き抜いた政宗、その反面歌舞音曲や料理などにも優れた一流の文化人であったところも、家光には魅力的に思えたのでしょう。
また、伊達政宗と徳川家光にはいくつかの共通点が見られます。
両者とも幼いころに大病を患い、それによって健康に対する関心が深くなりました。
そして、家光は祖父には愛情を注がれたものの、父からは冷遇されていたと伝えられており、政宗もまた母親が長男の政宗よりも弟の方を支持するという境遇だったという共通点が見られます。
そのような理由からも、家光が37歳年上の政宗にシンパシーを感じ、父のように慕ったのではないかと推測されます。
政宗の最期、家光の失意
1634年ごろから、政宗は食欲不振や嚥下困難などの体調不良を訴えるようになりました。
この頃の家光は、政宗のためだけに医者を呼び、江戸じゅうの寺社に病気平癒の祈祷を行わせました。
また1636年に、参勤交代で江戸に来た正宗は体調が悪く絶食中だったことから、家光は大変心配し、自ら藩邸に足を運んで政宗を見舞っていたと記録に残っています。
そして政宗は70歳でこの世を去りましたが、この悲報を聞いた家光は、父・秀忠が亡くなった時よりも落胆したといわれています。
家光は、江戸で7日・京で3日間、殺生や遊興を禁止して正宗の逝去に対して喪に服すことを命じま、悲嘆にくれたと伝えられています。