仙台藩初代藩主・伊達政宗が、家臣の支倉常長を大使としてメキシコやスペイン・イタリアへ派遣した外交使節団を、慶長遣欧使節といいます。
今回はその慶長遣欧使節に描いた、伊達政宗の夢についてご紹介していきます。
慶長遣欧使節を送った背景
慶長遣欧使節は慶長18年(1613年)に、支倉常長を大使として仙台領の月の浦(現在の石巻市)を出港し、まずメキシコへ向かいました。
この時代は、1603年に徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開いてから10年後に当たり、まだ徳川幕府が安定していない時期でした。
1605年に徳井家康は将軍職を徳川秀忠に譲り、また1609年にはオランダの商館を長崎の平戸に置き、オランダと貿易を始めます。
また、慶長遣欧使節を送った翌年の1614年には大坂冬の陣、そしてその翌年の大阪夏の陣と、まだまだ戦乱が続く時代でした。
日本国内がまだまだ安定していない状況の中、伊達政宗が慶長遣欧使節を送った理由はいくつかありますが、この時代に国内でこのような大航海ができる船を作り、海外へ向けて出航させた伊達政宗は、かなり斬新な思考を持っていたのではないかと思われるのです。
最初の地メキシコを経てスペインへ
慶長遣欧使節は慶長18年(1613年10月28日)に、サン・フアン・バウティスタ号で月の浦を出航、メキシコの太平洋岸のアカプルコへ向かいました。
出航から三か月後にアカプルコに入港、使節団の先遣隊がメキシコシティに入りました。
この時先遣隊の武士がメキシコシティで盗人を無礼討ちにして、支倉常長ら数人を除き武器を取り上げられるという逸話が残っています。
その後支倉常長らがメキシコシティ入りし、5月8日にはメキシコシティを出発しました。
メキシコのアカプルコに向かった目的は、メキシコとの直接貿易ということもありましたが、最終目的地であるヨーロッパへ行くためにはメキシコを経由しなければヨーロッパへ行けなかったという経緯もあります。
当時イスパニア領であったメキシコの太平洋岸に入港し、支倉常長一行はここから先スペイン艦隊に便乗し、日本人として初めて大西洋を渡り、スペインへ渡ることになりました。
伊達政宗が海外との貿易で描いた夢とは
慶長遣欧使節は、「日本人として初めてヨーロッパへ渡り、外交交渉を行った」という画期的な出来事でした。
後に江戸幕府の崩壊後(開国後)、明治新政府の欧米視察によって、長い時を経てこの時の欧州での支倉常長らが遺した事跡に触れました。
この際に、日本国内ではほとんど忘れ去られていた支倉常長らの偉業が再び注目されることになり、明治新政府の岩倉具視らはこの事跡によって大いに勇気づけられたと伝えられています。
伊達政宗がこの慶長遣欧使節を派遣した一番の狙いとして、海外の貿易を通して新しく豊かな国を作るということがあげられます。
伊達政宗は単に物の交換だけではなく、知識や技術、またそれらを身につけた知識人や技術者の交流を目的としていたと考えられます。
もう一つ、この慶長遣欧使節を派遣する2年前に、東北地方を巨大な地震が襲いました(慶長大地震)。
これは、東日本大震災に匹敵するほどの規模で、政宗の領内の被害も相当なものだったと想像されます。
そういう意味でも、伊達政宗は東北地方の復興、そして新しく豊かな国造りを目指していたと思われます。
そしてまだ徳川政権が確立してないこの時期に、仙台藩そして東北地方の勢力を固めて、もう一度天下を取るという伊達政宗の夢もあったのではないかという説もありますが、これに関しての史料は残っていないので、推測の域を出ていません。