伊達政宗の嫡子が建立した仙台東照宮、なぜ隋身像が本田忠勝なのか?

仙台東照宮は、仙台藩初代藩主・伊達政宗の世継ぎである伊達忠宗によって創建されました。

今回はその仙台東照宮と、本田忠勝など徳川家の家臣たちとの関係についてご紹介します。

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仙台東照宮とは

仙台東照宮の正式名称は「東照宮」ですが、他の東照宮と区別するために、仙台東照宮と呼ばれています。

仙台東照宮は1654年、伊達政宗の次男で名君と言われた伊達忠宗が創建しました。

初代藩主である伊達政宗が亡くなった後、仙台藩領内では大洪水や大火などの災害が続きました。

それによって仙台藩の財政は危機に陥りましたが、徳川幕府の物心両面の援助を受け、立て直すことができたとされています。

そのような背景から伊達忠宗は、徳川家に対する感謝と尊敬の標として時の将軍・徳川家光に願い出て仙台東照宮を建てたのです。

その際、社殿の造営にとどまらず、神社を維持・管理するための御宮町を制定し、東照宮祭礼の実行などの取り決めも行いました。

随身門で睨みをきかせる本田忠勝

元々徳川家への感謝と崇敬の標として創建した仙台東照宮は、徳川家康を祭神としています。

境内の賛同入口に立つ石鳥居は、国の重要文化財に指定されており、伊達忠宗の妻・振姫のふるさとである岡山県の犬島から運ばれた花崗岩で造られています。

その石鳥居をくぐって拝殿に向かう途中に、隋身門があります。

隋身門とは、神社の外郭で、隋身の像を左右に安置してある門で、仙台東照宮の隋身には本田忠勝と藤堂高虎の像が置かれています。

本田忠勝は譜代で、徳川家の守護神と呼ばれるほどの武将ですが、なぜもう一人が藤堂高虎なのか?

藤堂高虎も、徳川家康の信任が厚く、譜代並みの扱いを受けていますが、その由来については地元の史書などでも触れていません。

左右の隋身は、京の大仏師である左京法橋幸和の作で、左の藤堂高虎は63歳の姿、右の本田忠勝は43歳の姿を模したものとされています。

ちなみのこの隋身門も、国の重要文化財に登録されています。

徳川家と伊達家の深いつながり

拝殿の奥にある唐門、これは神と人との領域を分ける重要な門です。

普段は防犯上の理由で近づくことは許可されていませんが、唐門の扉には、上から鳳凰・麒麟・唐獅子の彫刻がされています。

また、当時の最先端の技術である「七宝金具」の装飾がされており、これは東照宮では日光と仙台でしか使われていません。

東照宮は登録されているだけでも全国に47社あり、その中でも特に仙台東照宮は規模も大きく、本家である日光東照宮殿と関係が深くなっています。

これは仙台東照宮創建に当たって、伊達家が徳川家康そして徳川家に対して尊崇が深かったことの証であると推測されます。

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