伊達政宗は「黒脛巾組(くろはばきぐみ)」という、直属の忍者組織を創設したとされています。
今回はその「黒脛巾組」について詳しくご紹介していきます。
「黒脛巾組」とは
「黒脛巾組」とは、伊達政宗が組織した直属の隠密組織といわれており、「黒脛巾」は黒い革の脛当てや脚絆のことをいいます。
そしてそれを装着して組の印としたことが、「黒脛巾」という名前の由来になります。
「伊達秘鑑」「老人伝聞記」という資料によると、この特殊部隊は、地域の農民や町民、職人の中から腕に覚えがあり力量の優れた者を集め、扶持を与え、30人・50人を一組にして組織されたものとされています。
政宗は彼らを各地に置き、商人・山伏・行者などに変装させ、情報を得ていました。
黒脛巾組は、敵対する勢力の陣中に忍び込んで内部混乱を誘ったり、諜報活動をしていたともされています。
現在では仙台の象徴として、黒脛巾組は芸能ユニットや観光キャラクターのモチーフとして人気を博しています。
「黒脛巾組」の信憑性
実はこの黒脛巾組は、戦国時代や江戸初期の史料では確認できない呼称なのです。
江戸時代の中期以降の伊達家資料に突如として登場することから、後世の創造・架空の存在であった可能性もあるのです。
しかし伊達家の本拠地が現在の山形県の置賜地方であったことから、出羽三山の修験者と伊達家に深い繋がりがあったことは知られており、忍者組織があったことを完全に否定することもできないとされています。
忍者・忍術は源平時代以降に発祥したものであり、日本国内各地でいくつもの集団が形成されました。
任務としては、諜報活動・破壊活動・浸透戦術・暗殺などが主で、女性の忍者「くのいち」も存在しました。
ドラマ等で見られるような忍び装束を着たくのいちは近代の創作とされていますが、武田信玄に仕えた歩き巫女などは史実として残っています。
黒脛巾組の神社が更地にされてしまった事件
黒脛巾組の鹿又戸兵衛という忍者が、大阪の陣で大活躍し、伊達家二代藩主・伊達忠宗から知行地をさずかりました。
そして昭和37年に、戸兵衛の子孫にあたる元・仙台市長の鹿又武三郎氏が、太白区西多賀に戸兵衛大明神の社を建立しました。
ところが2017年11月、その黒脛巾組の神社が地元住民への告知なしに更地にされてしまったのです。
人口増加に対処するための宅地造成ではありましたが、告知もなく貴重な建造物が撤去されたことによる住民らの不満は、大きなニュースとなり問題にもなりました。
伊達政宗や黒脛巾組の存在に恩恵を受けている仙台市が、黒脛巾組の鹿又戸兵衛を祀る神社を突然更地にするという事件は、住民たちの気持ちを逆なでする出来事であり、もう一度行政のあり方を考えるべき課題だと思われます。