独眼竜と呼ばれた伊達政宗、彼の性格を変えた幼少期のトラブルとは?

独眼竜として有名な戦国武将・伊達政宗は、幼少期のトラブルによって性格が形成されたとされています。

今回は、そのトラブルと幼少期の伊達政宗に与えた影響について説明していきます。

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伊達政宗が誕生したころの時代背景

伊達政宗の曾祖父である伊達稙宗、祖父の伊達晴宗は、積極的に外征や周辺大名との子女の縁組を行って、勢力を拡大していきました。

そして政宗の父である輝宗は、奥羽方面ばかりではなく、関東の北条氏そして新興勢力である織田信長・徳川家康らとも通交しました。

伊達政宗の功績のみが取り上げられることが多いのですが、実は先祖の偉業と政策によって、伊達政宗は東北地方の広大な領土を受け継いだのです。

伊達政宗は永禄10年(1567年)出羽国米沢にて誕生(幼名は梵天丸)、父は伊達輝宗、母は最上義守の娘で最上義光の妹である義姫です。

父は奥州探題家、母は羽州探題家の出ですから、その両親の子として生まれた伊達政宗は、生まれながらの貴公子だったのです。

疱瘡に罹り、右目を失明

名門の後継ぎとして生まれた伊達政宗は、幼少期から才能ある師より帝王学を学び、教養・芸術そして文芸など多くの分野で一流の知識を持つ人物に育ちました。

しかし、4歳の時に疱瘡(天然痘)を患い、命はとりとめたものの右目を失明してしまいます。

幼少期からおとなしい子供であった政宗は、右目の失明と疱瘡のせいであばた顔になってしまい、、ますます内向的になってしまいます。

このあばた顔が母である義姫から憎まれた、という話が有名になっており、ドラマなどでは義姫から毒殺されそうになったというエピソードが見られますが、この逸話は史実として記されていません。

母が弟ばかりをかわいがり、政宗を拒絶したために寂しい幼少期を過ごしたというのが、よく聞く伊達政宗の幼少期の物語ですが、政宗は元々引っ込み思案で、疱瘡でますますおとなしくなってしまったというのが事実だと思われます。

伊達政宗を支えた3人の人物

天生3年、政宗が6歳の時に、父である輝宗は虎哉宗乙(こさいそういつ)という僧を政宗の師として招聘しました。

この虎哉宗乙は、「心頭滅却すれば火もまた涼し」の言葉で有名な快川和尚とも交流のある、才気あふれた僧でした。

そして虎哉宗乙は僧侶とはいえ豪快な人物で、おとなしかった梵天丸に大きな影響を与え、積極的で文武両道の伊達政宗に成長させるきっかけを作ったのです。

さらに父の輝宗は、近侍として片倉小十郎景綱を抜擢、さらに伊達成実を近習として伊達政宗につけます。

この二人はそれぞれ「智将」と「猛将」になり、伊達家を支えていくことになりました。

この3人の教えと影響によって、後に「独眼竜」として三日月の兜と黒い鎧を身につけた伊達政宗は、後世に名を残す文武両道の武将に成長したのです。

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