関ケ原の合戦直後、伊達政宗他の大名の石高はどうだったのか?

関ケ原の合戦は徳川方の東軍が勝利、家康の手による戦後処理によって大名たちの石高が大きく変動しました。

今回は関ケ原の合戦後の、伊達政宗や他の大名の石高についてご紹介します。

スポンサーリンク
masamune-date.comレクタングル大

関ケ原合戦が「天下分け目の合戦」といわれる理由

豊臣秀吉が存命中に定めた「五奉行・五大老」による指導体制は、関ケ原の戦いの後には完全に無効になってしまいました。

それ以前は大名の改易や加増に関わる事項は、五奉行・五大老に決定権があったのですが、家康以外は軒並み敗戦国となってしまったため、家康がこの特権を独占する形となってしまったからです。

関ヶ原の戦後処理で、改易や減封された大名は107家、没収した総石高は約726万石でした。

これが関ケ原の合戦が「天下分け目」という所以であり、この合戦によって日本国内の勢力図が大きく変わったのです。

関ケ原の合戦で最も領地を減らされたのは、豊臣秀頼でした。

豊臣秀頼の直轄領は222万石から65万石に激減され、実質的には豊臣家は単なる一大名に格下げとなってしまい、政権は徳川家に移ってしまいました。

関ケ原の合戦後に大幅に加増された大名

石高ナンバーワンとなったのは、36万石が加増されて100万石を越えた前田利長でした。

前田利長は前田利家の長男で加賀前田家の2代目、利長は北陸戦線で東軍として戦い、西軍の丹羽長重を撃破するという武功をあげています。

2位は結城秀康、家康の次男ですが長男がすでに逝去しているので実質的な長子です。

しかし実際に徳川家の家督を継いだのは三男の秀忠でした。

そのことに家康が配慮したのか、結城秀康には57万石の加増をし、石高は2位となりました。

そして3位の豊臣秀頼は157万石も減封されたにも関わらず、まだ65万石の大大名として残りました。

しかしこの後、この仕置きに不満を抱いて徳川に抵抗し続けたことから、大阪の陣に発展してしまい、最終的には豊臣家は滅びてしまうことになるのです。

第4位は伊達政宗ですが、実は家康は政宗に上杉を牽制するにあたって、100万石に加増するという約束をしていました。

しかし、政宗が独断で上杉領に侵攻しようとしたところ、関ケ原が一日で終わってしまったために失敗に終わりました。

そしてその行為が家康の逆鱗に触れて「100万石のお墨付き」を反故にされる原因となってしまい、結局伊達政宗は62万石となりました。

その後の伊達政宗

関ケ原の合戦後、望んだ恩賞の追加は棄却され、領地は62万石となった伊達政宗でしたが、家康の許可を得て居城を仙台城に移します。

そしてその後は仙台で城と城下町の建設を始め、その工事は延べ100万人を動員する大規模なものだったとされています。

その後の大阪の陣では、冬の陣・夏の陣ともに徳川軍として参戦して勝利を治めました。

世情が落ち着いてからの政宗は、もっぱら領国の開発と整備に尽力し、北上川水系の流域を開拓してその穀倉地帯は現代まで続いています。

家康が家督を2代目・秀忠に譲った後も正宗は徳川家と良好な関係を保ち、特に3代目の家光は政宗を「伊達の親父殿」などと呼んで大変慕っていました。

こうして伊達政宗は領国の発展に寄与し、東北地方の中心都市である
仙台の基礎を作ったのです。

スポンサーリンク
masamune-date.comレクタングル大

masamune-date.comレクタングル大

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする