司馬遼太郎の「馬上少年過ぐ」という短編小説があります。
今回は、伊達政宗を題材に書かれた「馬上少年過ぐ」の由来となった漢詩についてご紹介していきます。
「馬上少年過ぐ」とは
晩年の伊達政宗が残した漢詩で「酔余口号」というものがあります。
馬上少年過 世平白髪多
残躯天所赦 不楽是如何
馬上少年過ぐ
世平らかにして白髪多し
残躯天の許すところ
楽しまずんばこれ如何せん
現代風に意訳すると「若いころは戦場で往来したものだが、平和になって気付いたら白髪の老人になっていた。幸せな老後は天が許したもの。これを楽しまなくてどうする」となります。
一般的には伊達政宗はこの詩で、平和な老後に満足している気持を表現しているとされています。
しかし「楽しまずんばこれ如何せん」の部分に関しては、「楽しまなくてどうする」という解釈と、「楽しいと思えないのはどうしてだろう」という、全く違う二通りの解釈ができるのです。
最後まで徳川と闘うことができなかった無念、それを暗に表現したのではないか、そういう説もあるのです。
これは、政宗自身がどちらともとられるように作った可能性もあり、現在でも謎となっています。
司馬遼太郎「馬上少年過ぐ」
司馬遼太郎「馬上少年過ぐ」は、伊達政宗の生涯を描いた短編小説で、伊達政宗の生い立ちや生き方をコンパクトに表現した名作です。
小説の中で、政宗がホトトギスの鳴き声を聞くために山駕籠を利用して経峰に上った際に、家来に向かって自分のが死んだ後はここに埋葬せよと杖を立てたという逸話が紹介されています。
また、父そして弟を手に掛けなければならなくなった政宗の心情、その際の決断力など、史実を元にしたフィクションとして描かれた短編小説となっています。
司馬遼太郎の歴史長編小説は有名ですが、短編にも歴史上の偉人を主人公にしたすぐれた作品が多く、現在でも歴史ファンに愛読されています。
趣味人だった伊達政宗
伊達政宗は東北の覇者としての武勇伝は有名ですが、実は多くの趣味を持つ文化人でもありました。
料理・能・詩作など、晩年の伊達政宗は一日たりとも無駄に過ごすことがなかったと伝えられています。
若年のうちから習っていた能に関しては、奥小姓を太鼓の名人に弟子入りさせたり、政宗自身も家康や秀吉の前で太鼓を打つなどしました。
一説によると、政宗が晩年、能に費やした費用は年間で約3万石に及んだとされています。
また、秀吉が吉野で歌会を開いた際に武将たちはそれぞれ詩歌を読みましたが、政宗が最も和歌に精通し優れていたと伝えられています。
伊達政宗の辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」です。
この句は、暗闇の中を月の光を頼りに進むように、戦国の時代をひたすらに歩いてきた、という解釈がされています。