伊達政宗と、本能寺の変で斃れた織田信長との興味深い共通点とは?

戦国武将の中でも一際個性的な伊達政宗と織田信長。

この両武将は、活躍した時代の違いはあるものの、多くの共通点が見られます。

今回は伊達政宗と織田信長の共通点や、同時代に生きていたらどうなったかなどの考察についてご紹介していきます。

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本能寺の変の頃の伊達政宗

本能寺の変(1582年)は、織田信長の重臣である明智光秀が謀反を起こし、京都の本能寺で織田信長を襲って討ち取った事件です。

本能寺の変は戦国時代の中で最も大きな事件であり、その後の日本の動きを大きく左右しましたす。

織田信長が本能寺で斃れたのが49歳、そしてその頃の伊達政宗は14歳、元服を終えたとはいえ今で言えば中学生の年齢です。

本能寺の変は伊達政宗の耳には入っていたはずですが、そのことに対して何かしらのアクションを起こすには若すぎましたし、東北在住の伊達政宗は中央で起きたこの事件に関しての情報はあまり多くなかったのではないかと推測されています。

伊達政宗は23歳の時に、伊達家の支配地を過去最大としました。

本能寺の変の頃に初陣を果たした伊達政宗は、やはり「遅れてきた英雄」という呼称が似合うのではないかと思われるのです。

伊達政宗と織田信長の共通点とは

伊達政宗と織田信長の優れた共通点は、新し物好きで最新のものを躊躇なく取り入れたというところにあると考えられます。

それゆえ両者とも外交対策に目を向けて、それに力を入れており、古い慣習をものともせず行動をしていったところが共通しています。

織田信長は天才肌で、一般的には非常識と思われたことでも、自分で合理的だと思えば実現していきました。

伊達政宗にはこのような独創的・独善的な部分はあまり見受けられませんが、時代の最先端を見据えていたことに関しては共通する部分です。

また両者とも「傾奇者」「伊達者」と呼ばれるほど奇抜なスタイルを好み、見た目にも気を遣いました。

そして両者に共通している悲劇的な出来事といえば、実の弟を自ら手にかけなければならなかったということです。

家督相続のために弟が謀反を起こしたとはいえ、織田信長は織田信行を、伊達政宗は小次郎を討たなければならなかったというのは、戦国時代の常とはいえ悲劇であったことには変わりありません。

伊達政宗・織田信長、どちらの軍が強かったのか?

両者が一番強かった時期に相対したら、鉄砲騎馬隊を擁した伊達政宗の方が一枚上手だったのではないかという説があります。

しかしこれは、単に伊達政宗の方が後に生まれて、織田信長の時代には現実的でなかった新しい技術が導入されていたからだという見方もあり、やはりどちらが強かったという結論は出せないものと思われます。

また、大将としての器量で言えば、天才肌で独創的だった織田信長が一枚上手ではなかったと思われますが、家臣団の質で言えば伊達軍の方が戦上手だったのではないかと推測されています。

織田信長全盛の時代に伊達政宗が成熟した武将として存在していたなら、豊臣秀吉以上に重用されたか、危険人物として早々に斬られたかのどちらかだったのではないでしょうか。

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