後に奥州の覇王・独眼竜政宗と呼ばれた伊達政宗ですが、その一生は波乱万丈でした。
今回は政宗が幼いころに患った病気と、それが彼のその後に与えた影響についてご紹介していきます。
伊達政宗の出生
伊達政宗は伊達氏の第17代当主で、仙台藩の初代藩主です。
幼名を梵天丸といい、正宗は奥羽最大である大名家の嫡男として生まれたのです。
正宗は幼いころはわんぱくで、それに比べて弟の小次郎(竺丸)は上品で大人しい少年だったとされています。
しかし政宗を悲劇が襲います、それは天然痘(疱瘡)で、当時の天然痘といえば大変な病気で致死率も高かったのです。
正宗は幸い一命はとりとめましたが、右目の視力を失ってしまいました。
正宗の母の義姫は正宗のその姿にショックを受け、以後距離を置いて疎んじたと伝えられていますが、それに関しての確実な史料は残っていません。
しかし、それまで活発だった政宗は性格が一変、暗く引っ込み思案な子どもになってしまいました。
政宗を導いた二人の教育係
父の輝宗は、伊達家の家臣の中でも智将として知られていた片倉小十郎(景綱)を正宗の守り役に命じ、片倉小十郎はこの後亡くなるまで政宗に忠義を尽くしたとされています。
片倉小十郎が、醜くなってしまった政宗の右目を摘出したという逸話がありますが、政宗の遺骨の研究から眼球摘出の跡がないということがわかり、事実ではなかったことが証明されました。
しかし、伊達政宗が片倉小十郎を信頼し、小十郎も命を懸けて政宗を守ったということをうかがわせる逸話は多数残されています。
また父・輝宗は、「心頭滅却すれば火もまた涼し」の名言で知られる快川和尚と交流のある僧・虎哉宗乙を正宗の師匠として招きました。
若いころから才覚と豪胆な性格を認められてきた僧・虎哉宗乙はこの時46歳、彼も82歳でこの世を去るまで政宗にとって生涯師であり続けました。
この二人に教えを受けた政宗は、引っ込み思案で暗かった少年梵天丸から、豪快な武将政宗に成長しました。
幼少期の病気の影響?健康志向だった晩年の政宗
大阪の陣の後、天下に泰平が訪れてからの政宗は、天然痘の恐ろしさを知っていたせいもあり、自身の健康には大変気を遣いました。
伊達政宗の健康法とは、身近なものを使って誰にでもできるものだったとされています。
竹割をして鬱気を晴らす(ストレス解消法)、行水を行う、薄着をする、自分の脈をとって健康状態を把握するなど、現在でも通用する方法ばかりです。
また、政宗は日ごろから大きな茶碗で水をよく飲んでいたとされています。
この「飲水療法」も現在でも行われている方法で、水分を補給することによってデトックス効果や新陳代謝の促進に効果があります。
そして伊達政宗は、当時では長寿の70歳で癌性腹膜炎または食道癌でこの世を去りました。