伊達政宗が朝鮮出兵の際に残した功績は?

文禄元年、豊臣秀吉による朝鮮出兵のために全国の諸大名が集結しました。

今回はこの朝鮮出兵(文禄の役)での、伊達正宗の功績についてご紹介します。

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朝鮮出兵の際の伊達政宗の立ち位置

文禄元年(1592年)3月、伊達政宗は3000人の兵を率いて京を発ち、朝鮮出兵のために肥前の名古屋(佐賀県唐津市)へ向かうことになりました。

この朝鮮出兵は一般的に、秀吉が挑戦を征服するために兵を出したといわれていますが、本当の目的は明国を征服するために朝鮮を通ることに朝鮮が反発したものだという説があります。

秀吉の最終目的は「東アジアでの交易の独占支配」で、それにより日本の国力をあげることだったともいわれていますが、いずれにせよ失敗に終わった朝鮮出兵は無益な戦いでした。

朝鮮で武功を上げ、名を上げるチャンスと意気込んだ政宗でしたが、この朝鮮出兵の作戦においては、前線基地のある九州勢が主役でした。

連れて行く兵の数も限られており、政宗の軍は遊軍のような形の参戦だったのです。

伊達男・伊達政宗ここにあり

朝鮮出兵の本拠地・肥前の唐津にある名古屋城に向けて、一旦京都に集結した諸大名は隊列を組み出陣しました。

その行列を一目見ようと、沿道には大勢の人だかりができました。

先頭の一番隊・前田利家隊、そして二番隊の徳川家康の後に現れたのは伊達政宗隊でした。

仙台笹の家紋の軍旗に紺地に日の丸をあしらった幟をなびかせ、黒色の具足で統一された兵士たち、脇差は朱色に銀の装飾がほどこされ、馬上の武者は金色の半月が描かれた黒の母衣で揃えた軍勢。

そしてこの隊列の大将・伊達政宗は、黒の羅紗地に背中に大きな金色の家紋をあしらった陣羽織、袴も黒羅紗に金糸模様、そして兜はもちろん三日月の前立てとういう一段と華麗な装いでした。

金をふんだんにあしらってはいるものの、決して派手になりすぎない上品な豪華さに、京の人々は「動く絵巻を見ているようだ」と絶賛したと伝えられています。

洒落者の代名詞「伊達男」という言葉は、ここで生まれたとされているのです。

伊達政宗の狙いとは

伊達政宗部隊は朝鮮出兵において、残念ながら武力による特筆すべき功績をあげることができませんでした。

しかし、あまり知られてはいませんが、伊達軍は前線での戦いはなかったものの、後方支援や予備軍として地味に功績を上げていたのです。

初めから主力部隊ではなかったことから、この豪華な行列に伊達政宗の思惑がありました。

こういったパフォーマンスが大好きな秀吉に対して「伊達政宗ここにあり」というアピールをしたのです。

狙い通り豊臣秀吉を大いに喜ばせ、小田原攻略の遅参、そして一揆を扇動したと疑われた過去を帳消しにする結果となりました。

この作戦は側近の片倉小十郎と共に考えたものとされており、改めて政宗と片倉小十郎が優秀な戦略家だったということを感じさせられる逸話です。

そして現在でも、この伊達政宗隊のいでたちは、戦国武将の中で最も人気を集めているのです。

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