伊達政宗は小田原参陣の際に本当に心から豊臣秀吉に恭順したのか?

奥州の雄・伊達政宗は豊臣秀吉の要請で、遅参はしたものの小田原合戦に参加しました。

今回は、その時伊達政宗は本当に秀吉に恭順したのか?その謎について解説していきます。

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秀吉の小田原征伐と、伊達家との関係性

豊臣秀吉は天下統一に向けて、小田原の北条氏を攻める際に伊達政宗に参陣するように書状を送りましたが、政宗はすぐには応じませんでした。

これには、伊達家と北条家が父(伊達輝宗)の代から同盟関係にあったこと、そして政宗自身も北条氏につくか秀吉に臣従するか迷っていたという背景があります。

その後の催促にもなかなか応じなかった伊達政宗でしたが、最終的には浅野長政の説得を受けて会津を出立、小田原へ向かいました。

そして、そこで初めて秀吉軍の規模と軍勢を目の当たりにして、秀吉に恭順することを決意、北条家との関係は深いものの秀吉に対抗することは不可能だと判断したのです。

この際、政宗は白装束で死を覚悟して秀吉に謁見、そして千利休から茶道の手ほどきを受けたいと所望するなどして、秀吉より遅参の無礼を許されたとされています。

小田原攻め後の奥州仕置き

小田原攻めの頃の伊達家は、150万石に近い領国を築いていましたが、合戦終了後、政宗の領地は秀吉によって陸奥出羽の13郡とほぼ半分の72万石に減封されてしまいました。

その主な理由として、小田原攻めに遅参したことと、芦名氏と戦い破ったことによる、惣無事令の違反でした。

同時に、参戦しなかった葛西・大崎家が改易される一方、小田原に参陣した最上・相馬家などは所領を安堵されており、この一連の仕置きを「奥州仕置き」と呼びます。

伊達政宗は遅参はしたものの小田原攻めに参加し、表向きは秀吉に恭順したかのように思えましたが、その後一揆を扇動するなど秀吉の命令違反を犯します。

その結果、伊達家が約200年間支配してきた土地を奪われ、19郡あまりの58万石の所領となってしまい、かなりの減封・損失になってしまうのです。

伊達政宗は本当に秀吉に恭順したのか?

小田原攻め以降の伊達政宗の行動を見ると、完全に秀吉に恭順したとは思えない部分が多々見受けられます。

しかし、秀吉の軍事力・経済力を目の当たりにした政宗は、表立って反抗することは伊達家を潰してしまうということを悟りました。

実際、伊達政宗が参陣していなければ、秀吉は小田原(北条家)を手中にした後は、北上して伊達征伐に向かう予定であったとされています。

秀吉が平伏する政宗に「参陣がもう少し遅れていたら、首と胴が離れていたな」と言ったという逸話も、信憑性こそ定かではありませんが、実際に参戦していなければ、いずれ伊達家は滅ぼされたのではないかということは容易に推測されるのです。

政宗は小田原攻めの時には恭順を示しましたが、その後の行動から推測すると、この時点ではまだ天下取りへの意欲は完全に消えていなかったと思われます。

しかし、関ケ原の戦い・大阪の陣を経て世の中が泰平になった後の政宗は軍事行動を止め、徳川家と親交を深め領国の繁栄に尽力しました。

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