伊達政宗の城がある岩出山町、その歴史と見どころとは?

伊達政宗が12年間居城としていた岩出山城は、古くは足利氏一門で奥州探題だった大崎氏の家臣の氏家氏の居城でした。

今回は、伊達政宗が岩出山城に移った経緯と、現在の岩出山城址についてご紹介していきます。

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伊達政宗の居城

伊達政宗は、領国の拡大や豊臣家・徳川家との関係で、何度も居城を移しました。

・天正12年~天正17年 米沢城
・天正17年~天正18年 黒川城
・天正19年 米沢城
・天正19年~慶長5年 岩出山城
・慶長6年~寛永4年 仙台城
・寛永4年~寛永13年 若林城

伊達氏は以前から本拠地を移転していましたが、最も移転が多かったのが伊達政宗の時代です。

正宗は米沢城で生まれて、17歳の頃に父・輝宗の隠居に伴って家督を相続し、その後近隣の大名との間で戦を繰り返しながら領土を広げていきました。

正宗は会津の蘆名家を滅ぼし一時は黒川城を居城としましたが、豊臣秀吉の小田原城攻略の遅参や、葛西大崎一揆などの仕置きで、岩出山城へ転封されることになりました。

正宗の岩出山城での12年

天正19年(1591年)に正宗の居城となった岩出山城は、元々「岩出沢城」という名で、この地の大名であった大崎氏の家臣である氏家氏の居城でした。

岩出山城は、当時の秀吉の奥州仕置きを担当していた徳川家康の命によって、家康の重臣である榊原康政が改修の普請工事を担当し、政宗に引き継がれました。

正宗は12年間岩出山城にいた、とされていますが、実際に政宗が城にいた時期はほんの数ヶ月くらいだったといわれています。

その理由は、正宗が岩出山城を居城としていた頃は、伊達家にとって最も多忙な時期だったことにあります。

文禄・慶長の役(朝鮮出兵)、豊臣秀次事件への連座そして関ケ原の合戦などで、政宗は領土を留守にしている期間が長かったのです。

そして正宗は関ケ原の合戦後の慶長6年に、仙台へ本拠地を移転しました。

この後、岩出山城は政宗の四男・宗康を祖とする「岩出山伊達家」の要害として、明治維新の時代まで続きました。

現在の岩出山城

岩出山城は、現在では石垣の一部が残るだけとなり、岩出山城址(城山公園)として市民の憩いの場となっています。

また岩出山城には仙台藩の藩校の一つである「有備館」が置かれ、庭園と共に史跡に指定されています。

昭和39年に伊達政宗の像が仙台市護国神社境内から移築され、これを契機として、毎年8月10日に政宗公祭りが行われるようになりました。

政宗公祭りは、文禄元年の朝鮮出兵の際に正宗が率いた3000人の豪華絢爛な武者行列を再現して、町中を練り歩くというものです。

伊達政宗の像は、元々第二次大戦時の金属類回収令で銅像を失った仙台城跡に置かれていたものを、岩出山城址に移設されたものです。

ここに置かれている伊達政宗は、セメントでできており色は乳白色、しかも有名な騎馬・甲冑の姿ではなく、平服という珍しいものとなっています。

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