伊達政宗の遺言は?その言葉に隠された正宗の真意とは?

独眼竜の異名で知られた伊達政宗は、寛永13年(1636年)に他界しました。

今回は、伊達政宗の遺言と辞世の句から推測される政宗の真意についてご紹介していきます。

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伊達政宗の遺言

「仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐればへつらいとなる。」

「智に過ぐれば嘘を吐く。信に過ぐれば損をする。気長く心穏かにして、よろずに倹約を用いて金銭を備ふべし。倹約の仕方は不自由を忍ぶにあり。」

「この世に客に来たと思えば何の苦もなし。朝夕の食事うまからずともほめて食うべし。元来客の身なれば好き嫌いは申されまじ。今日の行くを送り、子孫兄弟によく挨拶をして、娑婆のいとまを申すがよし。」

これが政宗の遺訓として伝わっている文章で、現代でも通用する、生活全般のあらゆる心得が凝縮された名言です。

伊達政宗の辞世の句

徳川が幕府を開き天下泰平の世になった後、伊達政宗は表向きの軍事行動を一切やめて、領国の発展に力を尽くしました。

また、趣味に没頭した晩年であったとも伝えられています。

「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照らしてぞ行く」

暗闇の中で月の光を頼りに進むように、戦国の先が見えない時代を、自分が信じるとおりにひたすら歩んできた一生だった。

このように現代語訳されることが多くなっていますが、他にも様々な解釈がされているのです。

政宗の遺言そして辞世の句も、「自分の道を思うように進んできて後悔はない」また「もう少し早く生まれて、天下取りの戦をしたかった」という無念の気持ち、解釈の仕方によって両方にもとることができます。

俳句や詩は本人しか分からない心情を文章にするもので、他人や後世の人間が解釈を決められるものではありません。

しかし伊達政宗の生涯を考えてみると、悔いのない一生だったと思う気持ちと無念の思いが交錯していたのではないか、と推測されます。

伊達政宗、亡くなる前日の言葉

「政宗公御名語集」に、政宗が亡くなる前夜にこのような言葉を残しています。

「若いころは具足をつけて野に臥せり、夜討ちをかけてやろうと思考を繰り返し、戦場で屍を晒してやろうと思っていた。しかしついにその機会はなく、床に伏せて病で命を散らすことになって口惜しい」

これを見ると、やはり政宗の胸中には戦いきれなかった無念の思いが去来していたのではないかと思われます。

政宗は、自分が床に伏せっている姿を人に見せることを嫌っていました。

そして亡くなる間際にも「自分が没しても、むやみに人を入れるな」と言い残し、西方に向かって合掌して亡くなったと伝えられています。

最期まで伊達男を貫いて亡くなった伊達政宗、政宗に従って20名の家臣が殉死しました。

また、知らせを受けた将軍・4徳川家光はたいそう悲しんで、江戸で7日・京都で3日、殺生と音曲を禁止しました。

この措置は一大名の死に対しては異例中の異例で、政宗に対する家光の信頼ぶり、そして悲嘆ぶりが尋常でなかったことがよく分かります。

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