伊達政宗の妻はどんな人?側室には意外な人がいた

伊達政宗の正室(妻)は、一歳年下の愛姫です。

今回は、正宗を支えた賢妻といわれる愛姫、そして政宗の側室についてご紹介していきます。

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実は又従兄だった政宗と愛姫

愛姫は永禄11年(1568年)に、の田村郡美春(現在の福島県三春町)城主・田村清顕の娘として生まれ、天正7年(1579年)に伊達政宗と結婚しました。

正宗の曾祖父の娘が田村家に嫁いでいるために、政宗と愛姫は又従兄の関係でした。

結婚当時政宗は13歳、愛姫は12歳で、現代の感覚では早すぎると思われますが、当時では妥当な年齢です。

戦国の世の常で、これも政略結婚の一種でした。

蘆名・相馬氏の攻略を想定していた伊達家は田村氏を味方につけたかった、そして一方の田村氏も伊達家と協力関係は望むところでしたので、お互いの思惑が合致した婚姻と考えられます。

愛姫は豊臣秀吉や徳川家康の人質として、京や江戸に住むことを義務付けられたため、伊達家の本拠地の仙台には生涯ほとんど足を踏み入れることがなかったと伝えられています。

しかし、愛姫と政宗や姑の義姫との仲は概ね良好であり、その様子は交わされた多数の手紙によって証明されています。

美しく賢妻だった愛姫

愛姫(めごひめ)の名は、「めんこい」という可愛い・美しいという意味の東北の言葉です。

そして愛姫は美しいだけではなく、生涯政宗を影で支えた賢妻であったと伝えられています。

豊臣秀吉の意向によって、大名の妻子は強に住むことを義務付けられたことから、愛姫も京都へ移り住むことになりました。

その際に愛姫は、他の大名の妻たちと卒なくお付き合いをこなし、国元にいる政宗に手紙で京都の情勢を知らせていました。

また、天下の動きや秀吉の女好きを警戒し、常に懐剣を携えて、政宗には「いざという時は私のことは気にせずに、大義に従って去就を決めてほしい」と伝えていました。

愛姫は政宗との間に4人の子供を授かりましたが、一番下の子供を授かったのが愛姫41歳の時でした。

これは当時ではかなりの高齢出産だったのですが、この年で愛姫が懐妊したということは、政宗との仲が本当に良かったということだと思われるのです。

愛姫は正宗の死後、夫のありのままの姿を残しておきたいと、片目の政宗像を作らせています。

また、政宗の死後17年たった愛姫自身の死の間際には、夫の命日に旅立ちたいと命を永らえさせて、本当にその通りに政宗と同じ月命日に亡くなりました。

政宗の側室たち

記録の中で確認できているのは、正室が愛姫、そして側室が7名で、すべて身元の確かな武家の娘です。

ただし側室の子女の数は記録に残っているのみであり、それ以外の落胤や側室がいたという可能性もあります。

側室の一人の新造の方は、愛姫よりも先に長男・秀宗を産み、その秀宗は後に宇和島藩の初代藩主になりました。

伊達秀宗は政宗に似て賢く豪胆で、名君と呼ばれました。

また、朝鮮出兵の際に捕虜として連れ帰った女性を側室にしたともされていますが、史実には残っていません。

スペイン出身の側室・マリア(南樹の方)ががいたともされていますが、これは山岡荘八の小説「徳川家康」における創作で、実際の史料にはありません。

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