奥州の雄と呼ばれた伊達政宗は、その独創的な行動でも知られています。
数々の武勇伝を残した伊達政宗ですが、今回はその中でも最も彼の性格や行動を偲ばせるできごとについてご紹介していきます。
小田原参陣に遅れた伊達政宗
織田信長が家臣の明智光秀の謀反によって弑された本能寺の変、伊達政宗はちょうどこのころに元服しました。
本能寺の変の後、明智光秀を討ち急速に勢力を伸ばし、地位を固めていった豊臣秀吉は、天下統一を目前にして小田原攻め(北条攻め)を敢行することになりました。
伊達家は、豊臣秀吉によって小田原攻めに参戦するよう要請されましたが、伊達家と北条家が同盟関係にあったこともあり、伊達政宗は参戦に対してかなり迷いました。
伊達政宗は豊臣秀吉の配下のような扱いにも、疑問を持っていたともいわれています。
結局伊達政宗は秀吉に従うことを決めたのですが、かなり遅い決断となってしまい秀吉の逆鱗に触れることは必至という状況です。
そこで伊達政宗は、秀吉に対して恭順の意を示すために、大軍ではなく200人余りのわずかな手勢だけを率いて領地を出立しました。
覚悟の白装束
小田原に遅れて到着し謁見を許された伊達政宗は、全身白装束に身を包み秀吉の前へ現れました。
「遅れて申し訳ありません。命を落とす覚悟はできています」という意味での白装束でした。
「あともう少し遅れたら首と胴が離れていただろうな」という秀吉の言葉に関しては、正確な史実としては残っていませんが、そのような状況下にあったということは作り話ではないとされています。
この政宗の命がけの派手なパフォーマンスは、同じく派手好きでパフォーマンスが大好きな秀吉に気に入られ、今回の遅参はお咎めなしということになりました。
次の謝罪は白装束だけではなかった!
遅参を許された伊達政宗と異なり、宮城県北部~岩手県南部の大名である葛西家と大崎家は小田原攻めに参陣せず、その結果改易になってしまいました。
新たに木村吉清という人物が、旧大崎家と葛西家の領地の領主に決まったのですが、その手腕に対して葛西・大崎の旧臣たちが不満を持ち、一揆をおこしたのです。
一揆の解決を命じられた蒲生氏郷と伊達政宗は、相談の上軍を動かすことに決めましたが、蒲生氏郷の元に、この一揆は伊達政宗が仕組んだものだという情報が入ります。
一揆の後押しをしたと疑いをかけられた伊達政宗は、再び秀吉のもとへ弁明に行かなければならなくなりました。
前回と同じ白装束ではやり過ごせないと考えた伊達政宗は、今回は白装束と、金箔を貼った大きな十字架を抱えて秀吉の元へ現れます。
そしてこのパフォーマンスも秀吉に気に入られ許された、とされていますが、実際にはその姿だけではなく、伊達政宗という人物をかっていた、また他の大名も伊達政宗を擁護したという背景もあったものと考えられます。
数多くの武勇伝を残した伊達政宗ですが、これが最も伊達政宗の個性を表す逸話だと思われるのです。