伊達政宗と武田信玄、「10年」というキーワードが表す二人の関係とは?

甲斐の虎・武田信玄と独眼竜・伊達政宗、活躍した時期は異なっていますが、興味深い共通点があります。

今回は「10年」というキーワードから、この二人の武将の関係についてご紹介します。

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奇妙な縁でつながっていた武田信玄と伊達政宗

臨済宗の僧であり、妙心寺の住職を勤めた快川紹喜という禅僧がおり、名僧といわれていました。

その話を聞きつけた武田信玄が、快川紹喜を甲斐随一の名刹である恵林寺に招き、信玄は快川紹喜師事しました。

武田信玄は快川紹喜を敬慕し、禅を学ぶだけでなく、政治や軍事の相談役として親交を深めていったのです。

武田信玄が亡くなり織田信長によって武田軍が滅ぼされた後、快川紹喜が信長の申し出を断ったことによって、恵林寺は燃やされてしまうのです。

寺の中には快川和尚のほかに約100名の僧が集まっており、全員坐したまま焼かれてしまいました。

この時に快川和尚が呈した言葉が、かの有名な「心頭滅却すれば火もまた涼し」です。

そして、この快川和尚と親交のあった虎哉宗乙という僧がおり、この人物も徳の高いそして豪快な僧でした。

虎哉宗乙は伊達政宗の教育の師として、様々な薫陶を政宗に与え、その後の政宗の人格に大きな影響を与えました。

武田信玄と伊達政宗の共通点

武田信玄と伊達政宗の間には、いくつかの共通点が見られます。

その一つは、他に類を見ない個性を持ち合わせていることです。

両武将とも、天下取りの戦において主役にはならなかったにも拘らず、人気においては他の武将を凌駕しています。

武力においては、武田信玄は騎馬軍団、伊達政宗は騎馬鉄砲隊と、その時代の先端を行く最強の部隊をそろえ、世が世なら天下を取った可能性もあったとされています。

しかし、武田信玄は順調に城を落としながら上洛する途中で、病に斃れて本懐を遂げられずに終わりました。

そして伊達政宗は、一人前の武将として成長し己の才覚で国を発展させ、武力も充実させた時点で、すでに豊臣秀吉による天下統一が成ってしまっていたのです。

共通する「10年」とは

歴史においてIFは無意味とされていますが、ここではあえて武田信玄と伊達政宗に共通するIFについてご説明します。

「武田信玄が後10年長く生きていたら」

「伊達政宗が後10年早く生まれていたら」

この仮定はとても興味深いものがあり、天下の趨勢に大きく影響するものです。

武田信玄は1521年生まれ・1573年没、伊達政宗は1567年生まれで、46歳もの年の差があります。

ちなみに織田信長は1534年生まれ、豊臣秀吉は1537年で、正宗が生まれたころにはすでに信長は尾張を統一し、着々と天下統一に向かっていたのです。

武田信玄は上洛する際、織田信長との戦を前にして病に斃れました。

もしこの時信玄がもっと若くそして病気になっていなかったら、この時点で信長を滅ぼしていた可能性が高いといわれていますす。

そして伊達政宗が、信長そして秀吉が天下を統一する前、群雄割拠の時代に生まれていたら、その後の構図は劇的に変わっていたとも考えられます。

いずれも「もし」の話ですが、この両武将の武力や知略、そして政治力を考えると、想像が限りなく広がります。

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