仲が良かった伊達政宗と細川忠興、エピソードと交わした手紙とは?

文化人としても有名な伊達政宗と細川忠興ですが、この二人の武将の間の関係には興味深いものがあります。

ここでは伊達政宗と細川忠興の関係や、交わした手紙にまつわる逸話をご紹介します。

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悪友とも呼ばれた?伊達政宗と細川忠興

伊達政宗は仙台藩の初代藩主、そして細川忠興は豊前小倉藩の初代藩主で肥後隈本藩主を務めた人物です。

東北の名門伊達家に生まれ、幼いころから帝王学を学んだ伊達政宗と、足利家支流の細川家出身の細川忠興は、生まれ育った環境が似ていたことから仲良くなっていったのではないかとされています。

性格的にも文武両道で気性が激しいことも似ており、また茶道やお洒落に対して造詣が深いところなど、様々な共通点がありました。

お互い気性が激しかったことから、仲たがいをした時期もありましたが、伊達家と細川家は江戸時代まで友好関係にあったと伝えられています。

両者は、豊臣秀次事件で石田三成から厳しい仕置きを受けたあたりから徳川家康に接近し、その頃から親交を深めていったと推測されています。

伊達政宗と細川忠興は手紙好きだった

伊達政宗非常に筆まめな武将として知られており、たくさんの手紙が残されています。

その中に細川忠興との文通も多数残されており、伊達政宗と細川忠興との関係が伺われます。

文禄3年(1594年)に書かれたとされている細川忠興宛の伊達政宗の手紙には、「明日、太閤様伏見へご上洛」としたためてあり、太閤秀吉の上洛を自筆で知らせるものでした。

また、細川忠興は、天下の明香である「白菊」を伊達政宗に譲り、政宗はそれを「紫舟」と名付けて家宝としたとされています。

また、細川家の紋である「九曜紋」を、伊達政宗が細川忠興にねだってもらい受けましたが、せっかくもらった九曜紋を重臣である片倉小十郎にあげてしまったという逸話も残っています。

ちなみに家紋というものは一家に一個という決まりはなく、家柄を象徴する他、自分をアピールするためのトレードマークのような意味合いでも使われていました。

江戸時代にも続いた両者の深い関係

江戸時代中期、細川家の当主細川宗孝は、殿中で旗本に人違いで刺殺されてしまうという事件が起こりました。

その時ちょうど登城中で居合わせた仙台藩主の伊達宗村(仙台藩第6代藩主・伊達氏宗家代22代当主)が、細川家の家臣に的確な指示を出し、細川家を救ったと伝えられています。

伊達宗村は、刺された際に動転した細川家の家臣たちに「宗孝殿はまだ息があるので、すぐに連れ帰って手当せよ」と指示をしました。

当時は、江戸城の中での刃傷沙汰は、刀にも手をかけずに斬られた場合は改易になる恐れがあったので、伊達宗村のとっさの機転で細川家を救ったことになるのです。

その結果、細川家の家臣は細川宗孝の死を病死として届けを出し、無事に弟の重賢が家督を継ぐことができました。

伊達家と細川家は、藩祖のころから親しかったことから、仙台藩藩主がその遺志を継ぎ、このような行為で示したのではないかとされています。

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