伊達政宗に関するエピソードの中で、煙草が大好きだったというものがあります。
今回は、伊達政宗が煙草をたしなんだ理由と、当時の煙草とはどういうものだったのかについてご紹介します。
伊達政宗は愛煙家?
伊達政宗は毎日、起床してすぐ、昼時、就寝前の3回、煙草を吸ったと伝えられています。
それ以外にも何度か吸っていたともされていますが、それは嗜好のためではなく、健康のためだったのです。
当時の人々は煙草を薬ととらえていて、他の戦国武将も健康法として煙草をたしなんでいたとされています。
正宗の墓所から遺品として、立派な梨地煙管箱に入った煙管(きせる)2本と、竹で作られた掃除具が見つかっています。
当時の煙草は、現在一般的に出回っている巻煙草ではなく刻み煙草で、それを煙管に詰めて火をつけて吸うというものでした。
正宗が愛用した煙管の長さは69cmと63.7cmと、後の煙管に比べて大変長いものでした。
日本に煙草が伝わったころは、この長い煙管が一般的だったとされています。
日本における煙草の歴史
日本に煙草が伝来したのは戦国時代といわれており、種子島に鉄砲が伝来した時に一緒に入ってきたとされています。
最古の記録では、1601年にスペインの修道士が徳川家康へ献上した煙草の種と、煙草から作った薬に関して記されており、喫煙に関する最初の記録は1609年でした。
そして江戸時代になって全国に普及しましたが、当時は非常に高価な薬として扱われており、喫煙できるのは金持ちの商人や武士だけでした。
しかし、薬として吸っているうちに急死してしまう者もいて、煙草禁止令が出された時代もありました。
そして江戸時代の中期には価格も低くなって、喫煙の習慣は庶民にも広がっていくのです。
戦国武将と煙草
煙草好きとされた戦国時代の人物には、伊達政宗をはじめ秀吉の側室の淀殿、剣豪といわれる柳生宗矩などがおり、それ以外にも多くいたとされています。
新し物好きの豊臣秀吉も煙草を吸ったことがある、という記録も残っています。
一説では、当時の煙草は大変高価なものだったので、大麻をかわりに使っていたとも伝えられています。
豊臣秀吉や伊達政宗などのような大名ならともかく、当時の下級の武士たちにとっては煙草はとても高価な貴重品だったので、比較的安価な大麻を吸っていたという説もあります。
実は大阪の陣の2年前に、喫煙と煙草の売買そして耕作禁止令が公布され、その後江戸時代になってからも禁煙令が何度も出されていました。
その理由は、風紀の乱れや失火、そして煙草の葉の栽培は儲かるということで、米や麦などの工作の妨げになってしまったからなのです。
しかし禁令下が出たにも拘らず、煙草は流行していったために次第に容認され、庶民を中心に嗜好品として親しまれるようになりました。