ヨーロッパのアジア進出が始まり、戦国時代の日本にはポルトガル人によって鉄砲が伝来し、薩摩の島津貴久が最も早く世界の大航海時代と直面しています。
こうした情勢に目をつけた戦国武将の織田信長は、ポルトガルとの南蛮貿易で入ってくる西洋からさまざまな物や文化を最大限に利用します。
古代から交易によって物資や文化に影響を受けてきた日本列島が、覇権を争って鎬を削る戦国武将もまた、国外との関わり方に思慮を巡らせています。
ここでは、海外との関わりを模索した戦国武将の中でも、スペインに注目し、慶長遣欧使節団を派遣した伊達政宗の国外との関わり方をご紹介します。
伊達政宗がスペインへ使節を派遣した理由は?目的は?
織田信長がポルトガルから伝えられた鉄砲に目を付け、南蛮貿易を活用したのと同様に、徳川幕府の成立後、伊達政宗はスペインとの交易を模索しています。
伊達政宗は仙台城下の街づくりを進めながら、スペインとの直接貿易と、スペイン国王とローマ教皇との関係性構築を目的とした慶長遣欧使節を派遣しています。
正宗の家臣である支倉常長が、宣教師のルイス・ソテロと共に使節として太平洋を渡り、スペイン国王に謁見し、ローマ法皇にも拝謁しますが、目的を達することができず帰国しています。
7年かけてメキシコ、スペイン、ローマを回り帰国した遣欧使節団には、史料の多くが失われているため、未だ解明されない数多くの謎が潜んでいます。
スペインへの施設派遣の意図と大地震の記録は?
伊達政宗がスペインへ使節を派遣する構想は、慶長大地震と呼ばれる「慶長大津波」が仙台藩を襲ったわずか2週間後で、その2年後に欧州へ向け船が出帆しています。
2022年に起きた東日本震災の400年前に起きた仙台藩での震災は、徳川家の「駿府記」に仙台領だけで5,000人を超える死者の記録があり、仙台藩の「定山公治家記録」でも1,783人の死者の記録があります。
こうした背景から、伊達政宗のスペインとの交易を目的とした慶長使節派遣には、徳川幕府により国内が安堵したものの、伊達郡旧領土の回復できず新たな収益源の確保や、先進技術を有する武器の輸入だけではない意図を推測させます。
伊達政宗が目指した海外との貿易は、物資流通のみでなく、文化や技術、情報や人流ももたらし、大災害で被災した仙台藩の復興の基盤にも思慮を巡らせたかもしれません。
織田信長、伊達政宗が模索した海外との交易
南蛮貿易によって海外の物資や文化を積極的に取り入れた織田信長に呼応するかのように、その後に現れた伊達政宗もスペインとの直接貿易を模索し、使節を派遣しています。
徳川幕府の成立により、旧伊達郡領土の回復ができず、仙台藩の新たな活路を見出す目的で派遣されたと考えられてきた慶長遣欧使節団には、仙台藩を襲った「慶長大津波」からの復興も意図したと推察されています。
奥州の覇権を握った伊達政宗が、朝鮮出兵での経験や鉄砲組や足軽組頭の経験を持つ支倉常長を使節の大使に抜擢し、海外に活路を見出そうとした姿勢には、仙台藩の未来を模索したリーダーの姿が感じられます。