武家の世で重んじられた忠義や義などの武士道は、日本人の遺伝子に深く刻み込まれ、急速に進んだ高度経済成長にも大きく影響したと思えます。
江戸時代の武士にとって、自分の藩や藩主に対する忠義が最も重視され、下剋上の風潮があった戦国時代でも「敵に塩を送る」という義を感じさせる史実もあります。
その一方で、今の日本社会で起きているキャリア志向に似た下剋上という風潮の広がりもみせ、混沌とした武家の関係性がありました。
ここでは、伊達政宗が戦国時代の東北で領国を拡大し、覇権を握るまでの背景で重要な関係にあった片倉小十郎とに残された逸話などをご紹介します。
片倉小十郎とはどんな人?伊達政宗との関係は?
片岡小十郎景綱は、米沢にあった八幡神社の神職だった片倉景重の次男として生まれ、文武両道に優れた二十歳ほど年上の姉・喜多に武芸を仕込まれています。
伊達政宗の乳母となった喜多の口添えがあったのか、片岡小十郎は8歳になった伊達政宗の教育係となり、二人の関わりが始まります。
伊達政宗より10歳ほど年上だった片倉小十郎は、時には父や兄のように公私共に政宗のために一生を捧げ、あらゆる面で伊達家を支えた人物です。
片岡小十郎は、武士の忠義と武芸をはじめとした能力の高さは、豊臣秀吉や徳川家康がヘッドハンティングしたことからも明らかです。
片岡小十郎の逸話から分かる伊達政宗との関係は?
伊達政宗が梵天丸という幼名で呼ばれていた5歳の頃に天然痘にかかり右目を失明し、後遺症として眼球が飛び出してしまいます。
活発だった面影は消え、右目が飛び出した醜い自分の姿に耐えきれず、引きこもりがちになっています。
そんな内気な幼少期の伊達政宗の教育係となった片岡小十郎は、政宗がその後に迎える戦場での主君としての強さを諭し、飛び出した右目をえぐり取っています。
伊達政宗は恐怖と激痛で失神しましたが、内気で引きこもりがちだった性格は一変し、活発さを取り戻しています。
主君が望んだとしても、右目をえぐり出す要求に逃げ惑う家臣たちの中、自らの保身も考えず、政宗の命に別状があれば自害も覚悟した忠義心は、他の家臣とは別格でした。
また、片岡小十郎の伊達政宗に対する忠義の関係は、小十郎が政宗よりも先に子宝に恵まれた際にも、主君よりも先に子ができるのは不忠だとして、我が子に手をかけようとまで考え、それを知った主君の政宗が懇願し、小十郎の子殺しを思い止まらせた逸話にも現れています。
伊達政宗の教育係を超えた父兄の関係にあった片倉小十郎
8歳の伊達政宗の教育係となった10歳年上の片倉小十郎は、伊達政宗のためなら命も捧げるという忠義心で一生尽くした家臣です。
天然痘の後遺症で失明し飛び出した右目を取り出して欲しいという伊達政宗の願いに、躊躇なく応じ、かつ多大な恐怖と痛みを緩和させようとした片倉小十郎との逸話には、主君と家臣を超えた関係性が感じられます。
また、ときの権力者だった豊臣秀吉がヘッドハンティングしたことに、片倉小十郎の能力の高さも感じられます。
