伊達政宗と真田幸村の関係とは?どんな関わりがあった?

戦国には、その運命を主君と一蓮托生に考える武将を多く、大坂夏の陣で豊臣方として参戦した真田幸村もそんな武将のひとりでした。

命のやり取りをする戦のなか、自分の身に危険が及ぶことは覚悟していても、妻子の命や人生は別に考えた武将も多く史実として伝えられています。

織田信長と浅井長政との戦いで、数奇な人生を送った信長の妹のお市の方と3人の娘らのことは有名ですが、真田幸村の妻子にも同様な悲劇が起きています。

ここでは、同じ年のライバルとして戦場で対峙しながらも、意外な関係があった伊達政宗と真田幸村についてご紹介します。

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同じ年生まれの伊達政宗と真田幸村のつながりは?

伊達政宗は仙台60万石の大名の嫡男として生まれ、真田幸村は一国一城の主でもない大名の真田昌幸の次男として生まれ、生まれ年こそ同じですが、全く違う人生を歩んでいます。

そんな二人は、豊臣と徳川が戦いを演じた「大坂夏の陣」において、敵対する立場で、参謀の片倉小十郎の嫡男の重長を介して重要なつながりが生まれています。

伊達家の先鋒を務めた片倉重長は、大坂夏の陣の道明寺の戦いで、8時間にも及ぶ戦いの末、老練な後藤又兵衛らの軍勢を討ち取り、真田幸村の軍勢と真っ向から衝突しています。

一進一退の戦いを続けながら、徐々に後退と壊乱を起こした真田幸村は対峙した重長を高く評価し、自らの命が尽きる運命を悟り、幼い子らの命を託しています。

敵対する武将の家臣の戦い振りで人を判断し、自分の子供らの運命を託した真田幸村と引き受けた伊達政宗には、現代人が理解できない戦国武将同士の関係性がありそうです。

真田幸村に託された子供らを守った重長の戦いは?

伊達政宗の参謀の父から命じられ、先鋒として乗り込んだ重長は、戦場での戦いが終了した後、自分を見込んで託された真田幸村の子供らを守る戦いが始まっています。

徳川家康を追い詰めた真田家の残党に対する追及は厳しさを増し、真田幸村と対峙した重長の間近にまで迫ります。

重長は、幸村の三女「お梅」をたまたま雇った下女とし、次男の「大八」は京都で死亡したという偽情報を流して撹乱しています。

幸村の子供が生存していると徳川に知られれば、片倉家も伊達家も終わってしまう危険な戦いでした。

直接の関係がない相手が、そんな危ない橋を両家が渡ってくれると判断をした真田幸村の「人を見る目」には、武将ではなく親の想いも感じさせます。

伊達政宗と真田幸村の意外な関係性

同じ年に全く違う環境下に生まれた伊達政宗と真田幸村は、豊臣から徳川へと時代が移る「大坂夏の陣」で、徳川方と豊臣方として対峙しています。

劣勢となる豊臣方の様子をみた真田幸村は、自分の運命も尽きることを悟り、子供らを伊達政宗の軍勢として戦った重長に託すという驚きの関係を生み出しています。

しかも、敵の武将の子供らを引き受けた重長と共に、伊達政宗も徳川の追求を避ける戦いを演じる情の深さをみせています。

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