仙台味噌の開発者は伊達政宗?!彼が日本の食文化に与えた影響とは?

現在でも仙台の名物となっている仙台味噌、この開発者は伊達政宗といわれています。

今回は、伊達政宗と仙台味噌の関係、そしてそれが日本の食文化に与えた影響についてご紹介します。

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仙台味噌とは

仙台味噌は、伊達政宗が仙台城下に設置した「御塩噌蔵(おえんそぐら)」と呼ばれた味噌製造所で造らせた味噌の製法で製造されている味噌のことをいいます。

仙台味噌は、辛口の赤味噌で、米麹と大豆で造られています。

関西地方の白味噌と比べると、仙台味噌は熟成期間を長くとっていることで発酵が進み甘味と旨味が強く、赤味噌の代表格として安土桃山時代から全国的にその名を知られていました。

仙台味噌の由来として、伊達政宗が朝鮮出兵の際に持参した仙台味噌が、夏場でも腐敗しなかったことが他の武将から注目され、分け与えたことから仙台味噌が有名になった、という逸話が残っています。

しかし、当時の政宗の居城が岩出山城であったことや、仙台という地名がその後につけられたことから、これは誤りであるとされています。

仙台味噌の呼称に関しては、仙台藩の味噌御用を勤めていた真壁屋市兵衛が1626年に「仙台味噌」の招牌を掲げたのが元祖とされており、その後政宗の指示によって城下に御塩噌蔵が設けられたとされています。

しかし、仙台味噌という呼称が後のものだったとしても、朝鮮出兵の際に政宗が持参したことは記録に残っています。

そして二代藩主・忠宗の頃から、仙台味噌の余剰分を江戸の味噌問屋を払い下げたことから、江戸市中に仙台味噌の名が知られるようになり、評判を呼びました。

伊達政宗がその後の日本の食文化に与えた影響とは

1601年に政宗は仙台城に移り、領内の発展と軍用のために味噌を醸造する大規模な蔵を作りました。

これは当時の城下町の絵図にも描かれており、日本で初めて味噌を量産する施設であったことが証明されています。

この仙台味噌はとても日持ちが良く、保存食として他の大名や武将たちに評判がよく全国的に広まりました。

また伊達政宗は、正月に食べる雑煮やおせち料理にこだわりを見せました。

正月に雑煮を食べる習慣は室町時代に始まり、戦国時代にはほぼ全国で雑煮が食べられるようになりました。

しかし戦国時代の雑煮はまだ武士だけの料理で、一般庶民にまで浸透するのは江戸時代に入ってからだとされています。

ちなみに、丸餅は京風(公家風)、武家は餅をのして切ることで敵を制圧して切るというイメージで、あえて角餅を取り入れて公家と差別化を図ったともいわれています。

正宗が食べていたとされる雑煮は、アワビ・ナマコ・ニシン・豆腐・ごぼう・黒豆そして角餅という豪華なものでした。

また政宗は、60種類以上の食材を用いておせち料理を作りました。

料理の色まで配慮し、白・黄色・赤・黒・緑の陰陽五行説に則った配色がなされており、現在に近い色とりどりのおせち料理を食べたのは伊達政宗が最初だったのではないかといわれています。

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