奥州を統一すべく戦場を駆け抜けた伊達政宗、しかしその晩年は趣味に生き、数々のエピソードを残しています。
今回は伊達政宗の晩年、そして死因・最後に残した言葉についてご紹介していきます。
大阪の陣以降の伊達政宗、料理にハマる
関ケ原の戦い・大阪の陣で豊臣家が滅亡し、徳川による太平の世が訪れてからの伊達政宗は、表立った軍事行動をやめて、藩政と趣味に生きるようになりました。
幼いころから学問に親しんで育ったことから、晩年の政宗は多くの趣味を持ち、一日たりとも無駄に過ごすことがなかったと伝えられています。
その中でも特に料理に傾倒し、自らの江戸藩邸に大御所(前将軍)徳川秀忠を招き、自分で作った料理を振るまいました。
「真の御馳走というものは、旬の品をさりげなく主人自ら料理するもの」と秀忠のために自ら調理した料理を出そうとしたところ、秀忠付の侍が毒見をしようとしました。
その時政宗は「将軍を暗殺しようなどと思っていたのは、もう10年も前のこと。しかも毒殺などという姑息な真似はせず合戦で討ち倒す。」と怒ったという逸話が残っています。
そして秀忠もその言葉に感じ入り、かえって政宗の忠誠に信頼を深め、穏やかな宴となりました。
花鳥風月を愛でる穏やかな晩年
寛永十三年(1636年)4月、後に瑞鳳殿(政宗の墓所)が建つ事になる経ヶ峰を散策していた時に、政宗は漢詩を詠みました。
馬上少年過
世平白髪多
残躯天所赦
不楽是如何
馬で野を駆け巡った少年の頃は過ぎて、天下泰平となり白髪も増えた、この余生を楽しまずしてどうする。
そういった意味の漢詩ですが、余生を楽しむとともに、天下取りに参加できなかった無念の思いも含まれていると推測される漢詩です。
そして詩を詠んだ後少し歩いて足を止め、自分が死んだらここに埋めよ、と杖を地面に立てました。
そしてその約2か月後、政宗は生涯を終え、その場所に瑞鳳殿が建立されたといいます。
このように晩年の政宗は和歌や漢詩、また能にも傾倒して優れた風流人として余生を過ごしました。
「伊達男」の臨終
晩年の伊達政宗は健康に気を遣い、様々な健康法を実践していました。
しかし寛永11年(1634年)あたりから食欲不振や嚥下に難を抱え、体調不良を訴え始めます。
その後徐々に病状は悪化し、嚥下困難や嘔吐で絶食状態が続くようになりました。
そして寛永13年5月24日、享年70歳で死去、死因は食道癌あるいは癌性腹膜炎だったと推測されています。
伊達男の名にふさわしく、見苦しい姿を見られたくないと、臨終の際には妻子にも死に顔を見せなかったと伝えられています。
最期の言葉、辞世の句
「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」
この句の解釈も様々ですが、暗闇の中を曇りのない心の月を信じて突き進んできた一生であった、という心情を表していると考えるのが一般的になっています。