自分の領地領土を守り、あわよくば領土を広げ、覇権を握ろうとした多くの戦国武将のなかで、伊達政宗は短期間に領土を広げた武将のひとりです。
織田信長が天下布武を掲げ、畿内を中心に起きた覇権争いとは遠く離れた位置にあった東北に居を構えながら、畿内への影響力を持っていた伊達政宗の存在は大きなものでした。
豊臣から徳川へと時代が移り変わる「大坂夏の陣」でも、その存在感を示し、江戸時代の初期に至るまでも影響を及ぼし続けています。
ここでは、そんな伊達政宗がたどった支配領国の変遷や、最大領土などについてご紹介します。
伊達政宗が奥州で最大領土の支配を成した戦略は?
伊達政宗は、織田信長が本能寺の変で倒れて三年後の1584年(天正12年)に、父の輝宗の家督を継承し出羽国米沢城主となっています。
米沢城主となった翌年には、恭順の姿勢を見せながらすぐに離反した大内定綱の小手森城を攻撃し、なで斬りにして残虐性を轟かせています。
その後、蘆名・佐竹・岩城・石川・白川の連合軍を人取橋の戦いで凌ぎ切って、その後の摺上腹の戦いで、蘆名氏を滅亡させ奥州の覇権を手中に収めます。
家督を相続してわずか五年で、奥州最大領土となる領国を有する戦国大名となった伊達政宗は、まだ23歳という若さでありながら、残虐性や謀略を駆使した戦略がみられます。
62万石から100万石超の領土にした伊達政宗の戦略は?
伊達政宗は家督相続した出羽国米沢の62万石ともいわれた領土を、その後の周辺領国との戦いと、領内の戦略的な支配によって拡大させています。
政宗は、四つに分けた領内のそれぞれに郡奉行を配置し、行政区分を実施し、新田開発にも力を入れています。
しかも、睨まれていた豊臣秀吉に対しても、その都度、機略と開き直りで切り抜け、常に天下を狙い続けています。
猫の目の様に変わる戦国武将の勢力図の中、戦略的に新田開発をおこなった伊達政宗は、110万石ともいわれる最大領土を見据えていたのかもしれません。
短期間に領土を拡大した伊達政宗の先見性
伊達輝宗から18歳で家督を継承した伊達政宗は、翌年には背いた大内定綱の小手森城を攻めただけでなく、大勢の人々を一度に次々と全て切り倒す残虐性も印象付けています。
その後も、領内の維持を図るのではなく、奥州での覇権争いに打って出て、強豪の蘆名と佐竹を軸とした連合軍と対峙し、蘆名氏を滅亡へと追い込んでいます。
しかも、戦国武将同士の戦いだけでなく、領地内の行政整備と共に新田開発もすすめています。
戦略的な領国拡大が、100万石超えともいわれる奥州最大領土の支配へとつながっています。