伊達政宗や豊臣秀吉主宰の吉野の花見での面白いエピソードとは?

お花見は日本の春の風物詩として定着していますが、実はこのお花見のルーツと戦国武将には、深い関りがあるのです。

今回は豊臣秀吉・伊達政宗ら武将たちのお花見での、面白いエピソードをご紹介します。

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日本で初めてお花見をしたのは誰?

桜を愛でて歌を詠む習慣は日本古来からあり、天皇による観桜会なども催されたとされています。

しかし、現代のような桜を鑑賞しながらの盛大な花見の宴を最初に催したのは、豊臣秀吉なのです。

主君の織田信長が斃れた後、天正13年(1585年)に関白、そして翌年には太政大臣を命じられた豊臣秀吉は、小田原の北条氏を滅ぼして天下統一を果たしました。

そこで開かれたのが「吉野の花見」です。

吉野は現在の奈良県の吉野町一帯をさし、昔から桜で有名だった土地でした。

その花見に招かれたのは、徳川家康・伊達政宗・前田利家などのそうそうたる武将たち、そして茶人や歌人など合わせて5000人という豪華な宴でした。

飲めや歌えの宴会はなんと5日間も続き、豊臣秀吉は富と権力を見せつけ、そして親睦を深めました。

秀吉に好評だった伊達政宗のコスプレ

この宴では、吉野山に趣向を凝らした茶屋を建て、武将たちは様々な扮装をして参加しました。

ここでの伊達政宗とその一行は、鈴懸の衣・檜笠・金剛杖を持った大峯山の山伏のコスプレで登場しました。

この一行が通り過ぎようとした時、「客の僧よ、この茶屋にお立ち寄りください!」という大声が聞こえました。

その声の主は、驚くことに太閤秀吉でした。

これに対して政宗も芝居じみた形で「疲れたのでここで休もう、酒なども飲みたいものだ」と言い、供の者に法螺貝を吹けと命じました。

政宗の家臣も何の躊躇もなく持っていた法螺貝を吹き、「斎料をください」などと言い出します。

この芝居じみた流れを、秀吉をはじめ一同腹を抱えて大笑いし楽しんだのですが、この流れを遮ったのが前田利家でした。

この笑いを理解できなかったのか、秀吉に失礼があったのではないかと思ったのか、真面目くさった発言をします。

そしてこの空気を読まない前田利家の真面目くさった発言が、更に爆笑をかってしまいました。

そしてしばらくしてから秀吉は政宗に向かって
「今日の花見で扮装が見事だったのはわしとおぬしだけじゃ、物好き天下一は決まったな」と笑って言ったと伝えられています。

醍醐の花見

上記の逸話は一般的に「醍醐の花見」での出来事とされていますが、状況や時代背景などから、吉野の花見の際のエピソードだと考えられます。

醍醐の花見とは、豊臣秀吉が醍醐寺に700本もの桜を植えさせて、近親者・諸大名など1300人を従えて催された豪奢な花見です。

秀吉自ら下見のために、醍醐寺に通い庭園の改修などを指揮して、醍醐山の山腹に至るまで桜の木を植樹したと伝えられています。

この花見では、秀吉の側室その他、参加した女性たちは二回の衣装替えが命じられ、一人3着ずつ着物が新調されるなど、衣装代だけでも現在の30億円以上かかったとされる絢爛豪華なものでした。

ちなみに現在でも醍醐寺では、毎年4月の第2日曜日に「豊太閤花見行列」が催されています。

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