大阪の陣の後、伊達政宗の長子・秀宗は、四国の南西部にある宇和島城を与えられました。
今回は、なぜ伊達政宗の庶長子が仙台から遠い宇和島の城主になったのか、その経緯についてご説明していきます。
宇和島城とは
宇和島城は、中世期にあった丸串城の跡に、藤堂高虎によって築かれた城郭です。
現在みられる天守などの建築は伊達氏によるものですが、縄張りは築城の名手と伝えられる藤堂高虎が創建した当時の形を活用したとされています。
宇和島城は梯郭式の平山城で、東に海水を引き込んだ堀があり、西側半分が海に接していることで「海城(水城)」でもあります。
城を囲む五角形の堀は、高虎の後に入城した大名に代々受け継がれましたが、現在では水堀も海も埋め立てられています。
明治以降は、建物の大半が撤去されてしまい、城郭は「城山公園」として整備されています。
太平洋戦争の空襲により宇和島城の大手門は焼失してしまいましたが、現在でも天守と立ち上がり門、そして石垣が現存しています。
伊達政宗の庶長子が宇和島城に入った経緯
天正19年(1591年)に伊達政宗の庶長子(側室が産んだ長男)として生まれた秀宗は、政宗の正室・愛姫に男子がなかったために、将来の後継者として「御曹司様」と呼ばれて育ちました。
豊臣秀吉から「秀」の一文字をもらって秀宗と名付けられた秀宗は、4歳の時に秀吉の人質として伏見城での生活が始まりました。
その後の関ケ原の戦いの後、石田三成方の宇喜多秀家に人質にとられ、その後徳川の時代になってからは徳川の人質として江戸で暮らすことになりました。
しかしこの頃、政宗の正室・愛姫が男子を産み、伊達家の跡取りはこの忠宗と目されるようになっていきます。
その後、忠宗の名は家康の後継ぎの二代目将軍・徳川秀忠の「忠」をもらったということもあり、伊達忠宗が伊達家の後継ぎとすることが決定的になりました。
しかし、秀宗は決して冷遇されていたわけではなく、徳川四天王の一人・井伊直政の娘の亀姫を正室に迎え、大阪の陣では政宗と共に参戦して戦功をあげました。
この戦功によって拝領された伊予宇和島10万石を拝領された秀宗には、政宗が直々に選んだ家臣団が付けられ、政宗も秀宗への配慮を家康に懇願したと伝えられています。
伊達秀宗の苦労と父・政宗との確執
宇和島藩主となった秀宗でしたが、宇和島藩の財政は初めから厳しく、仙台藩から借り入れをしなくては立ちいかない状況でした。
そのため、仙台藩への返済を巡って家臣たちの対立が起き、秀宗自身も宇和島藩が仙台藩の下に見られることに不満を持ち、藩政への意欲が失せてしまいました。
そんな中、仙台藩との関係に重きを置く家老の山家公頼を、反対派の桜田元親が家族もろとも弑してしまったのです。
しかも秀宗がこの騒動を政宗に報告しなかったことによって、政宗は激怒、秀宗を勘当してしまいました。
しかしそんな政宗を、徳川秀忠政権の老中・土井利勝がなだめ、秀宗との関係を取り持って、久しぶりに親子が対面することになりました。
その話し合いに置いて、秀宗は今までの長い人質生活や、長男にも関わらず仙台藩を継がせてもらえなかったこと、そして正直なところ、父を恨んでいる、と胸の内を吐露しました。
そして父・正宗は怒るどころか、秀宗の想いを受け止め理解し、親子関係が修復されたと伝えられています。
これ以後の正宗と秀宗親子は、文通や贈り物を送りあったりして、交流は長く続きました。
そして秀宗は宇和島の藩政に励み、幕末になると宇和島藩は名君といわれた伊達宗城(むねなり)を輩出して、その後、宇和島伊達家は仙台伊達家よりも格上になったのです。
ちなみに、秀宗の性格は政宗とよく似た気概の持ち主で、仙台藩を継いだ忠宗は何事も地道に運ぶ性格で「守城の名君」と呼ばれたと伝えられています。