伊達政宗と黒田長政の共通点と決定的な違いとは?

伊達政宗と黒田長政、あまり接点のない戦国武将ですが、意外な共通点がありました。

今回は、あまり知られていない伊達政宗と黒田長政との共通点についてご紹介します。

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伊達政宗と黒田長政の出生

伊達政宗は、伊達氏の第17代当主そして仙台藩の初代藩主として多くの功績を残しました。

永禄10年(1567年)に米沢城で生まれ、その時はすでに伊達家は東北地方の名家だったので、幼いころからから武芸や学問、そして帝王学を学びました。

黒田長政は、永禄11年(1568年)に豊臣秀吉の軍師として有名な黒田官兵衛(黒田孝高)の嫡男として播磨姫路城で生まれました。

伊達政宗と黒田長政は、生まれた地が遠かったこともありほとんど接点はなかったと思われますが、共に豊臣秀吉に仕えた後、関ケ原の戦いで東軍として勝利をおさめます。

お互いの接点は江戸城ということになり、両者とも徳川将軍家と親交を深め、太平の世では領国の発展に寄与しました。

伊達政宗・黒田長政は派手な兜で有名?

戦国武将にとって兜や鎧は、身を守る道具としてだけではなく、自分を表現するアイテムでもありました。

様々なデザインの兜が存在しますが、その中でもひときわ人気を集めているのが伊達政宗の大きな三日月の前立ての兜です。

現在でも五月人形の兜として一番人気があるのが、伊達政宗の兜の前立てという統計が出されています。

この大三日月の前立ては、星や月を信仰する「妙見信仰」から由来していると伝えられており、多くの武将が月をモチーフにした前立てを使用しましたが、正宗の三日月の兜のセンスが一際際立っていると思われます。

そして黒田長政の肖像画に描かれている兜の四角い前立て、これもインパクトの強いものです。

この四角い前立てのついた兜は、父の黒田官兵衛と共に秀吉に仕えていた竹中半兵衛が使用していた兜でした。

黒田官兵衛と竹中半兵衛は「二兵衛」と呼ばれ、共に軍師として名をはせた人物で、黒田長政は幼少期に処刑されそうになったところを竹中半兵衛に救ってもらったという恩があるのです。

その恩義を忘れず、黒田長政は関ケ原の戦いで、この四角いデザインの「一の谷の兜」をかぶって戦いました。

両者とも徳川家に忠心し自藩を発展させた

伊達政宗と黒田長政は家督を継いで以来、様々な武功をあげ逸話も残してきた武将です。

豊臣秀吉に仕え、そして秀吉の死後は徳川家康と通じて、関ケ原の戦いそして大阪の陣と、天下泰平に向けて尽力しました。

大阪の陣の後に泰平の世になってからの伊達政宗と黒田長政は、両者とも徳川家と深い関係を築き、信頼を得るとともに自分の藩の治世を行いました。

はっきりと史料として残ってはいませんが、黒田長政は人との付き合い方があまり上手ではなく、他の大名や家臣との仲があまりうまく行っていなかったという逸話が残っています。

それに比べて徳川の世になってからの伊達政宗は、三代目将軍家光の後見人となり、家光からも絶大な信頼を得て家光から「北の叔父御」などと呼ばれて慕われました。

同じく秀忠・家光と親交のあった黒田長政と伊達政宗は、ある意味ライバル同士だったのではないかとするとする歴史学者もいるように、戦国時代が終わってからは、藩同士が徳川将軍家に取り入ることに執心していたことがうかがわれます。

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