伊達政宗がとった大阪の陣での行動と目的とは?

関ケ原の戦いに引く続き、大阪の陣に徳川軍として参戦した伊達政宗。

今回は伊達政宗の、大阪の陣での謎の行動についてご紹介します。

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大阪の陣と伊達政宗

大阪の陣とは、正確には慶長19年(1614年)の大坂冬の陣と、その翌年の大坂夏の陣、その2回の戦いのことを指します。

大阪の陣とは、徳川家康が、関ケ原の戦いで弱体化した豊臣家を一大名にまで落とすか、または滅亡させるための戦でした。

正宗は大坂冬の陣では、大和口方面軍として布陣、和議が成立した後に大阪城の外堀埋め立て工事を任されました。

冬の陣で堀を全て埋められた大阪城は、この時点でもはや徳川の大軍に対して籠城や反撃をする能力は残っていなかったのです。

そして夏の陣が勃発すると、豊臣方の真田幸村・後藤基次らは、大阪城の南から攻めこむ徳川軍を城外で迎え撃ちます。

戦場となった道明寺付近で真田幸村らは、伊達政宗率いる徳川軍との戦いが繰り広げられ、後藤基次は伊達軍の鉄砲隊の前に斃れました。

大坂夏の陣での伊達政宗の謎の行動

道明寺の戦いで後藤基次隊を撃破した伊達政宗隊は、誉田村に兵を進めました。

一説によるとこの後の船場口での戦闘中に、伊達勢は水野家の家臣の軍を味方撃ちにして全滅させた、とされているのです。

水野勝成隊(徳川軍)の与力・神保相茂は夏の陣で300名ほどの小隊を率いて参戦、果敢に戦うも船場口にて明石全登隊(豊臣軍)が攻め込んだことによって混乱、激戦の最中に神保隊は全滅、相茂も討ち死にしたと伝えられています。

しかし一説として、神保隊の壊滅は伊達政宗軍からの突然の一斉射撃を受けたことによるとされているのです。

そしてこの話は確かな情報として、徳川方の諸将に広く伝わっていたとされており、島津家の「薩摩旧記」にも、伊達殿が味方撃ちをした、と記されています。

伊達政宗、味方撃ちの原因と理由

伊達勢が神保勢に対して味方撃ちをしたこと自体は概ね確かなこととされていますが、原因や理由については諸説あります。

戦での混乱の中、伊達勢が神保勢を敵と見誤って誤射した、また「味方であるから撃つな!」との大声を余計に怪しんで撃ち続けたのとの考察があります。

あくまで真相は不明ではありますが、戦後政宗が味方を撃ったのは上記のような理由だったという弁明をした、とされています。

また、敵方を撃破する目的を遂行するために、味方の小隊を巻き添えにしてもかまわないという、強硬手段を取ったという説もあります。

実は、道明寺そして誉田村での戦闘で、水野勝成と伊達政宗の間で何らかのトラブルが発生していたという記録も残っており、その確執に神保勢が巻き込まれたともいわれています。

もちろん、この神保隊の全滅自体が伊達勢の一斉射撃によるものという説自体、全く偽りである可能性も捨てきれていません。

その後伊達軍は、真田幸村隊と激戦を繰り広げ後退を余儀なくされることになりました。

リベンジに燃える伊達政宗でしたが、その後真田幸村と戦うことなく幸村は討ち死、大阪の陣は幕を下ろし、豊臣家は滅亡したのです。

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