伊達政宗は軍略に優れた武将で、画期的な新戦術を編み出しました。
今回は伊達家の戦闘教義・新戦術について詳しくご紹介します。
目次
東北地方の大名というハンデを越えた智将・伊達政宗
戦国時代中期以降は、槍や刀の戦闘方法に替わって、鉄砲が一番効果的な戦闘方法になりました。
そして鉄砲や火薬の産地が主に西日本、そして九州だったことで、鉄砲の伝来が遅く火薬の時給が困難だった東北は、鉄砲という新兵器においてかなり不利でした。
しかしその中で伊達政宗は、長篠の戦で武田軍の騎馬隊を織田軍の鉄砲隊が壊滅させたという情報を得て、早くから鉄砲に目をつけたのです。
伊達政宗は秀吉と接近したことで得た人脈を活用し、貿易港を利用して大量の兵器を輸入、大量の鉄砲を保有しました。
東北に領地を構えながらも、鉄砲をいち早く取り入れた政宗は、先見の明があり新しいものに対して積極的な人物だったと考えられます。
伊達政宗の鉄砲騎馬隊
正宗の部隊の中で一番有名なのは鉄砲騎馬隊です。
騎馬隊の機動力と鉄砲の破壊力を融合させた強力な部隊は、理論上は最強に思えるのですが、実際には欠点が多い作戦でした。
疾走する馬に乗ったままで鉄砲を使うのは至難の業で、弓と違って鉄砲では射程も命中率も低いことから、なかなか効果が出なかったのです。
実は16~18世紀のヨーロッパでには「カラコール」という騎兵戦術が存在し、射程距離と命中率の低さから失敗に終わった例があるのです。
そしてそこから改良を重ね、移動用として馬を使い、下馬して鉄砲で射撃をするという「竜騎兵」という部隊を作り上げ、それは当時最強の部隊となりました。
しかし、正宗の鉄砲騎馬隊は馬で高速で移動して停止、そして馬上から射撃という戦略をとりました。
そこで問題になったのは馬上での装填の難しさや、射程距離のある長い銃を使うことで発射速度が異常に低下することでした。
そこで政宗はヒット・アンド・アウェイを行う一撃離脱戦法を用い、その時々の状況に合わせて攻撃をしたのです。
騎馬鉄砲隊が最も威力を発揮した大阪の陣、しかし…
伊達政宗は大阪の陣で、八百頭の騎馬鉄砲隊を先頭に、二千頭の騎馬隊を含めた一万の大軍で数々の首級をあげました。
しかし西軍の真田幸村は、兵を茂みに隠して正宗の騎馬隊を引き付けて横から一斉に攻撃を加えるという接近戦に持ち込んだのです。
大激戦となったこの戦いでは、最強と言われた鉄砲騎馬隊も退却せざるを得ない状況になりました。
正宗はこの状況に対してかなり落胆し、その後恨みを残すこととなってしまいます。
なぜなら、雪辱を晴らすはずの真田幸村は翌日に戦死してしまい、何よりも合戦そのものがその大阪の陣で終結してしまったからです。
退却で終わり、鉄砲騎馬隊の威力を発揮する場面がなくなってしまった伊達政宗。
これも「正宗は生まれてくるのが遅かった」といわれる大きな理由の一つとなっています。